第1話「死地へ歩み入る復讐の供物」
登場人物紹介
◇シアン
帝国に滅ぼされた小国アルストリアの元王子。
性別はΩ。
国の滅亡後、身分を偽り「ルカ」と名乗って後宮の側室候補として潜入する。
亡き家族と祖国への復讐を誓っているが、気高く心優しい本質を持つ。
皇帝エドガーと接するうちに、彼の抱える深い傷と孤独に触れ、復讐と惹かれる心の間で激しく葛藤する。
◇エドガー
強大な軍事力を持つ帝国ガルヴァディアの若き皇帝。
性別はα。
冷酷無比な暴君と周囲からは恐れられているが、それは前皇帝が残した負の遺産を清算するために自ら被った仮面にすぎない。
玉座の重圧と孤独に苛まれている。
初見でシアンの正体に気づきながらも、ただ一人自分を対等な眼差しで睨みつける彼を手元に置き、深い愛情を抱いていく。
◇ヴィクトル
帝国ガルヴァディアの宰相。
性別はβ。
前皇帝の代から権力の中枢に座り、若き皇帝エドガーを密かに見下している。
皇帝を暗殺して傀儡を立て、自身が実権を握るために暗躍する。
オメガバース特有の「番」の制度を利用して後宮に罠を張り巡らせる狡猾な野心家。
分厚い樫の扉が背後で閉ざされ、重く鈍い音が鼓膜を震わせた。
外の世界を完全に遮断するその振動が、薄い靴底を通して足の裏へと伝わってくる。
シアンは冷たい大理石の床に視線を落としたまま、肺の奥に溜まった息を静かに吐き出した。
磨き上げられた石の表面には、天井から吊るされた豪華なシャンデリアの光が鋭く反射している。
靴を一歩踏み出すたびに、張り詰めた静寂の中に乾いた音が響き渡る。
先導するのは、豪華な刺繍の施された衣服をまとう初老の侍従長だった。
振り返ることもなく淡々と回廊を進むその背中を、シアンは一定の距離を保って追いかける。
廊下に満ちているのは、複数の香料を煮詰めたような甘く重たい匂いだ。
胸の奥まで絡みつくようなその香りは、ここが帝国の権力の中心であり、欲と陰謀が渦巻く後宮であることを無言で告げていた。
すれ違う女官たちが、壁際に立ち止まっては一斉にこちらへ視線を向ける。
艶やかな絹の衣を揺らす彼女たちの目には、新たな競争相手を値踏みする冷ややかな色が宿っていた。
シアンは表情の筋肉を固く縛り上げ、一切の動揺を外に出さないよう前だけを見据える。
今の自分は、ただの没落貴族の養子である。
名前はルカ。
家の借金を返すために、若い皇帝の側室候補として売り飛ばされた哀れなΩ。
それが、この場所で生き延びるためにシアンが被った分厚い仮面だった。
衣の裾が足首に触れるたび、微かな摩擦音が耳をかすめる。
着慣れない仕立ての良い衣服は、どこか皮膚をひりつかせるように窮屈だ。
背筋を伸ばし、歩幅を狭くして歩く動作すらも、本来の自分を檻に閉じ込めているような錯覚を覚えさせる。
回廊の片側には等間隔で高い窓が並んだ。
夕暮れの空の光が差し込んでいる。
冷ややかな風が吹き込み、シアンの前髪をわずかに揺らした。
その風の温度が、かつて過ごした故郷の気候と酷似していることに気づき、胸の奥がきしむように痛む。
緑豊かだった小国アルストリア。
燃え上がる王宮の炎の熱さ。
崩れ落ちる柱の音と、血の海に倒れた家族の冷たくなった手。
思い出すだけで、握りしめた拳の爪が手のひらに深く食い込む。
痛みで現実に引き戻され、シアンは瞬きをして目の前の光景を頭に刻み直した。
すべてを奪ったのは、この国だ。
帝国ガルヴァディアの若き皇帝、エドガー。
冷酷無比な暴君と恐れられる彼のもとへ近づき、隙を突いてその命を奪う。
懐に刃を忍ばせることは叶わないが、シアンの胸の奥には決して折れることのない鋭い刃が研ぎ澄まされている。
◆ ◆ ◆
案内されたのは、後宮の奥深くに位置する一室だった。
侍従長が恭しく一礼して去った後、シアンは重い扉を自らの手で閉めた。
真鍮の取っ手から指を離すと、部屋の中には完全な静寂が落ちる。
壁にはきめ細やかな織物のタペストリーが掛けられ、床には足が沈み込むほど分厚い絨毯が敷き詰められている。
寝台の天蓋から垂れる薄絹の奥には、滑らかな手触りの寝具が整えられていた。
すべてが豪華な空間だが、シアンにとっては息の詰まる精巧な鳥籠にしか見えない。
部屋の隅に置かれた鏡台の前に立ち、シアンは己の姿を見つめた。
華奢な骨格を強調するように仕立てられた衣装。
首筋の柔らかな皮膚はむき出しにされ、いつでも他者の歯を受け入れる準備が整っているかのように演出されている。
それは、自らが完全なΩであり、支配される側であることを否応なく突きつけてくる意匠だった。
シアンは鏡に映る自分の首元にゆっくりと指を這わせる。
冷え切った指先の温度が、温かい皮膚の表面をなぞる。
屈辱で喉の奥が震えそうになるのを、奥歯を強く噛み締めてこらえた。
窓の外では、陽が完全に落ち、帝都の街並みに無数の灯りがともり始めている。
夜風が木々の葉を揺らす音が、かすかに室内に届いた。
間もなく、迎えの者が来る。
皇帝にまみえ、己が供物としてふさわしいか値踏みされる時間が近づいている。
シアンは深く息を吸い、鏡の前の椅子から立ち上がった。
指の関節が白くなるまで拳を握り、そしてゆっくりと開く。
恐怖はない。
あるのはただ、冷たく静かに燃え続ける目的だけだった。




