第5話「書庫の埃と埋もれた真実」
エドガーの執務室に通うようになってから数週間が経過した。
ある日の午後、シアンは彼から特別な指示を受け、離宮の隣に建つ古い文書庫へと足を運んでいた。
先代の時代に編纂された国境警備に関する地図を探し出すのが目的だ。
石造りの壁に囲まれた文書庫内は、外の暖かさが一切届かないほど空気が冷え切っている。
アーチ状の天井に設けられた細い窓から斜めに差し込む光の筋が、空中に漂う微細な塵を白く浮かび上がらせていた。
シアンは棚の間に足を踏み入れ、目的の年代が記された区画をひとつずつ確かめていく。
革装丁の背表紙を指でなぞるたび、乾燥した紙特有の埃っぽい匂いが鼻先をくすぐった。
奥へ奥へと進むうち、鉄格子の扉で仕切られた一角に行き当たる。
通常であれば厳重に施錠されているはずのその扉が、なぜか半開きになっていた。
すき間から漏れ出す冷気の中に、何か得体の知れない引力が潜んでいるように感じられ、シアンは吸い寄せられるように鉄格子を押し開いた。
そこは、近年の軍事記録が雑然と保管されている区画だった。
棚の最下段に、ひときわ分厚い革のファイルが無造作に押し込まれているのが目にとまる。
背表紙の文字を見た瞬間、シアンの心臓が肋骨の裏側で鈍く跳ね上がった。
『旧暦三十年・アルストリア戦役・前線指揮録』
自らの故郷が焼かれ、家族が血の海に沈んだあの忌まわしい年の記録だ。
息が詰まり、無意識のうちに指がそのファイルを引き抜いていた。
重い表紙を開き、ひび割れた羊皮紙の束をめくる。
そこに記されていたのは、シアンが知る歴史とはまったく異なる凄惨な事実の羅列だった。
前皇帝による強引な他国侵略の指示。
資源を奪うためだけに立案された理不尽な作戦計画。
そして、その狂気に満ちた暴走を止めるべく、当時まだ皇太子だったエドガーが裏で放っていた無数の極秘書簡の写し。
『非戦闘員の脱出経路を第一に確保せよ。王族には危害を加えるな。略奪や無益な殺生を働く者は、その場で即座に軍律会議にかけ処刑する』
血のにじむようなその命令は、前皇帝派の好戦的な将軍たちの独断によってことごとく握りつぶされていた。
アルストリアの王宮が炎に包まれた日、エドガーは前線から遠く離れた後方で、どうにかして惨劇を食い止めようと軍の指揮権を奪い返すための内乱すれすれの行動を起こしていたことが、生々しい筆致で記録されている。
家族を殺したのは、エドガーではなかった。
むしろ彼は、己の立場を危うくしてまで、シアンの国を救おうと泥の中でもがいていたのだ。
ファイルの重みが耐えきれなくなり、シアンの腕から力が抜け落ちる。
分厚い革の束が足元の石床に落下し、乾いた音を立てて羊皮紙が四方へ散らばった。
両膝から崩れ落ち、冷たい床に手をつく。
何を憎めばよかったのか。
すべてを奪った帝国を滅ぼし、その頂点に立つ皇帝の命を絶つことだけが、生きる意味だった。
その支えが根底から崩れ去り、行き場を失った感情がどろどろと胸の奥で渦を巻く。
視界がにじみ、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れそうになるのを、奥歯を強く噛み締めて必死にこらえた。
「……見てはならないものを、見つけたな」
背後から降ってきた静かな声に、シアンは肩をびくりと震わせた。
振り返ると、いつの間にかエドガーが鉄格子の入り口に立っていた。
逆光を背に受けているため、その表情を窺い知ることはできない。
ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきたエドガーは、床に散らばったアルストリアの記録を一瞥した。
怒りも焦りもない、すべてを諦めきったような静寂が彼を包んでいる。
「なぜ」
絞り出すようなシアンの声は、ひどくかすれていた。
「なぜ、この事実を隠しておられたのですか。あなたは、あの惨劇の元凶ではないのに」
顔を上げ、エドガーの瞳を真っ直ぐに見つめる。
エドガーは床にしゃがみ込み、散らばった羊皮紙の一枚を丁寧に拾い上げた。
その指先の動きには、過去の死者たちに対する深い悔恨が込められているように見えた。
「皇帝としてこの玉座に座る以上、過去の帝国の罪はすべて余が背負うべきものだ。弁解など、死者の前では何の価値もない」
拾い上げた紙をファイルに挟み込み、エドガーはゆっくりと立ち上がる。
「お前の抱く憎しみを、否定するつもりはない。余の命が必要なら、いつでも差し出す覚悟はある」
その重すぎる言葉の響きに、シアンは息を呑んだ。
エドガーの強さの根源は、他者を虐げる力ではなく、自らの手を血で汚してでもすべての罪を一身に引き受けるという、底なしの自己犠牲だったのだ。
氷のように冷たいと信じていた男の奥底で、どれほど激しい炎が孤独に燃え続けているのか。
それに触れてしまったシアンの心の中で、復讐の鎖が音を立てて砕け散っていくのがわかった。
◆ ◆ ◆
書庫での出来事以来、シアンは自室で眠れぬ夜を過ごすことが多くなった。
復讐の対象を失った今、自分がこの後宮に留まる理由はないはずだ。
だが、胸の奥底でくすぶる新しい感情が、この場所から立ち去ることを頑なに拒否している。
それは、誰も知らない暗闇の中で一人立ち続けるエドガーの背中を、ほんの少しでも支えたいという熱を帯びた願いだった。




