番外編「灰色の孤独と溶けゆく氷」
◇エドガー視点
玉座から見下ろす世界は、いつだってひどく冷え切った灰色に染まっていた。
足元にひれ伏す者たちの目は、決してこちらを見ようとはしない。
彼らが畏怖しているのはエドガーという個人ではなく、背後にある巨大な帝国の権力と、αという絶対的な暴力の象徴だ。
前皇帝が狂気に駆られ、周辺国を次々と火の海に沈めていくのを、血を吐くような思いで止めようとした若き日の記憶。
己の無力が招いた数え切れないほどの犠牲と、焼け落ちたアルストリアの王宮の煙は、いつまでも脳裏にこびりついて離れることがなかった。
すべてを背負い、誰にも弱みを見せることなくこの氷の玉座を守り抜く。
それが、血濡れた冠を継いだ自分に課せられた唯一の贖罪だと信じていた。
だが、その凍てついた灰色の日々に、ある日突然、鮮烈な一筋の光が差し込む。
分厚い扉が開き、一人の側室候補が回廊を歩いてきたあの夕暮れのこと。
大理石の床に膝をつき、額をこすりつけるように平伏した細い体躯。
ルカという偽りの名を名乗ったそのΩがゆっくりと顔を上げた瞬間、エドガーの心臓は物理的な打撃を受けたかのように激しく脈打った。
澄み切った瞳の奥に燃え盛る、決して屈することのない烈火のような憎悪。
その鋭い視線は、帝国の権威やαの威圧を一切恐れることなく、ただ真っ直ぐにエドガーという一人の人間の魂を射抜いていた。
没落貴族の養子という経歴が周到に用意された偽造であることは、報告書を見た段階ですでに気づいていた。
彼の出身地や年齢、そしてその独特な色素を帯びた容姿は、焼け落ちた小国アルストリアの王族のものと完全に一致していたからだ。
彼が懐に刃を隠し、自らの命を奪いに来た復讐者であることは疑う余地もなかった。
本来ならば、即座に捕縛し処刑すべきだ。
だが、あの憎しみに満ちた瞳に見つめられた瞬間、エドガーの胸の奥で、自分でも制御しきれない奇妙な歓喜が湧き上がってしまったのだ。
『やっと、私を真っ直ぐに見てくれる者が現れた』
それは、氷の奥底で飢え乾いていた孤独な魂が上げた、みっともない悲鳴だったのかもしれない。
彼を手元に置いたのは、罪滅ぼしのためではない。
彼が自らの手でこの心臓を貫き、すべてを終わらせてくれるなら、それもまた悪くないという狂気に似た甘い諦観があった。
しかし、自室に彼を招き入れ、執務室で同じ空気を共有するうちに、エドガーの中でくすぶっていた感情は別の形へと変化していった。
触れた指先の痛ましいほどの冷たさ。
復讐の機会をうかがいながらも、ふとした瞬間に見せる優しさや、エドガーの重圧を気遣うような揺らぎ。
彼を知れば知るほど、αとしての本能が「この魂を永遠に手放したくない」と激しく粟立ち、理性を焼き尽くしそうになるのを必死に押さえ込まねばならなかった。
自らの背負う暗闇に、彼のような清らかな存在を引きずり込む資格などない。
そう言い聞かせて距離を保とうとしたが、運命はひどく残酷で、そして劇的な形で二人の隔たりを打ち砕いた。
宰相ヴィクトルの陰謀が牙を剥いた夜会の晩。
粗悪な香薬によってαの血が暴走しかけ、理性が吹き飛びそうになる暗闇の中で、視界に飛び込んできたのは銀の刃を砕きながら自らを庇う彼の細い背中だった。
「エドガー」と名高き皇帝をただの男として呼び捨てにし、迫り来る死の恐怖に震えながらも一歩も退こうとしなかったその強さ。
彼が自らの胸にすがりつき、体温を重ねてくれた瞬間、エドガーの中の荒れ狂う嵐は嘘のように静まり返り、世界が完全な形を取り戻した。
『この者のためだけに、残りの命を使いたい』
私室の暖炉の光の中で、彼が自らをアルストリアのシアンだと名乗った時、エドガーの中にあった最後の氷の壁が音を立てて砕け散った。
灰色の瞳に映る世界は、もう寒々しい色をしていない。
シアンというたった一人の番の存在が、エドガーの生きる世界に色彩と熱を与えてくれたのだ。
彼が隣にいてくれる限り、この帝国を導く玉座の重みなど、取るに足らないものだった。




