エピローグ「春の庭園と重なる足跡」
冬の厳しい寒さが完全に去り、後宮の庭園には百花繚乱の春が訪れていた。
冷たかった石畳の小道は柔らかな陽光に温められ、その両脇には鮮やかな青や淡い桃色の花々が一斉に蕾を開かせている。
枝葉を伸ばす木々の間からは、雪解け水が流れる水路のせせらぎと、小鳥たちの軽やかなさえずりが絶え間なく聞こえていた。
シアンは以前のような窮屈な絹の衣ではなく、アルストリアの伝統的な刺繍が施された、動きやすく身軽な上着をまとって庭園を歩いていた。
足取りは羽のように軽く、風が吹き抜けるたびに柔らかな髪が額の横で揺れる。
肺の奥まで澄んだ春の空気を吸い込むと、土と花の混ざり合った甘い香りが全身の細胞を優しく目覚めさせてくれるようだった。
回廊の向こうから、重厚でありながらもどこか弾んだ足音が近づいてくるのが聞こえ、シアンは歩みを止めて振り返った。
「ここにいたのか。執務室にいないから、探したぞ」
緑のアーチをくぐり抜けて姿を現したのは、エドガーだった。
皇帝としての威厳を示す漆黒の装束を身にまとっているが、その表情にはかつてのような人を寄せ付けない冷酷さは微塵もない。
肩の力は適度に抜け、灰色の瞳にはシアンを見つけた喜悦の色が穏やかに広がっている。
シアンは微笑を浮かべ、彼の方へと歩み寄った。
「申し訳ありません。あまりにも日差しが暖かかったので、少し外の空気を吸いたくなりまして」
エドガーは立ち止まったシアンのすぐ目の前まで来ると、ためらうことなくその手を取った。
大きくて熱い手のひらが、シアンの細い指をすっぽりと包み込む。
互いの体温が肌を通じて混ざり合い、静かな安堵感が胸の奥にじんわりと広がっていく。
「余も公務が片付いたところだ。西部の領主たちとの交渉も無事にまとまり、これで帝国内の内乱の種は完全に摘み取ることができた」
「本当ですか。それは素晴らしいことですね」
シアンが顔をほころばせると、エドガーは眩しいものを見るように目を細め、取った手をゆっくりと自らの唇へと近づけた。
シアンの手の甲に、静かな誓いのような口づけが落とされる。
触れた唇の感触に、Ωとしての微かな甘い疼きが背筋を駆け抜けるが、それはもはや抗うべき毒ではなく、愛しい相手の存在を確かめるための幸福な共鳴だった。
「お前が隣で支えてくれたからこそ、成し遂げられたことだ。シアン、改めて礼を言う」
「私の方こそ。あなたが私を独りにしておかなかったから、今の私がいるのです」
手をつないだまま、二人はゆっくりと庭園の奥へと歩き出した。
後宮はすでに解体され、ここは皇帝とその伴侶だけが立ち入ることを許された静かな領域となっている。
権力闘争や陰謀の渦巻いていた血生臭い空気はどこにもなく、あるのはただ、互いを慈しみ合う静謐な時間だけだった。
「来月には、アルストリアの難民たちが暮らす街へ視察に向かう予定だ。お前も同行してくれるか」
「はい、もちろんです。あの土地が再び緑豊かになる日を、この目で見届けたいですから」
シアンの言葉に、エドガーは深く頷いた。
過去の過ちを消し去ることはできないが、その傷跡に新しい種をまき、共に育てていくことはできる。
二人が歩いた後には、重なり合った二つの足跡がどこまでも並んで続いている。
吹き抜ける春の風が、色とりどりの花びらを舞い上げ、二人の背中を祝福するように優しく包み込んでいた。
その温かな陽だまりの中で、シアンは隣を歩くαの横顔を真っ直ぐに見つめ、決して切れることのない永遠の絆を心の中で静かに誓った。




