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クソみたいな人事評価が廃止され、「社内株式市場」が始まった。〜無能な上司の評価が暴落し、隠れた天才が高騰する〜  作者: nemodox


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第9話 毒薬

「さて。ぬるま湯のゲームは、そろそろ終わりにしましょうか」


最上階のサーバー監視室。

冷え切った冷房の風を浴びながら、朝倉零(26)は手元のエンターキーを、まるでピアノの鍵盤を叩くように軽やかに押し込んだ。


午前9時00分。

ミライ・イノベーションで働く全社員のスマートフォンが、けたたましい警告音を一斉に鳴らした。普段の無機質な通知音ではない。それは、空襲警報にも似た、本能的な危機感を煽るサウンドだった。


『TXシステム Ver2.0 アップデートのお知らせ』

『新機能【M&A(派閥統合)】がアンロックされました』


営業部のフロアで、佐藤健太(35)は血相を変えてアプリの通知画面を読み上げた。


「なんだこれは……『チームの時価総額による、他チームへの敵対的買収』……!?」


そこには、朝倉が仕掛けた凶悪な新ルールが記されていた。

社員同士が数名〜十数名で「チーム(派閥)」を組むことで、それぞれの株価(時価総額)を合算できる。そして、自分たちのチームの時価総額がターゲットとなるチームを大きく上回っている場合、システム上で『買収(M&A)プロセス』を発動できるというものだった。


買収されたチームはどうなるのか。

彼らが抱えている有望なプロジェクトや手柄は、すべて親会社(買収したチーム)のものとして強制的に吸収される。さらに、買収された側の社員の株価はロックされ、今後の配当の半分が親会社に吸い上げられる「子会社(実質的な奴隷)」へと成り下がるのだ。


「全社員が自分のアピールばかりして会社の利益が落ちているなら、力のある集団にリソースを強制的に集中させ、弱者を吸収させる。……実に合理的で、血も涙もない資本主義の猛毒ですよ」


朝倉が仕掛けたこのシステムは、社内の「足の引っ張り合い」を強制終了させ、代わりに「弱肉強食の殺し合い(バトルロイヤル)」を開幕させる合図だった。


「……おい、マジかよ」

「第1課の連中が、早速『ファンド』を設立したぞ!!」


フロアのあちこちから悲鳴が上がった。

他部署の業務を意図的に遅延させ、自分たちの株価を不正に吊り上げていた営業部第1課のベテラン社員たちが、約20名の高配当株を束ねた巨大な「第1課ファンド」を結成したのだ。その時価総額は、営業部はおろか、社内でもトップクラスの巨大な暴力となっていた。


標的ターゲット:営業第3課・新規開拓チーム』

『時価総額の差:4倍。買収プロセスを実行します』


無慈悲なシステム通知と共に、コツコツと真面目に新規顧客を開拓していた第3課の若手チームが、あっという間に第1課に「買収」された。彼らが血と汗を流して獲得した新規顧客のリストと、そこから得られる莫大な評価(株価上昇のメリット)は、すべて第1課のベテランたちの懐へと吸い込まれていく。


「ふざけるな! 俺たちが半年かけて育てたプロジェクトだぞ!」

「文句ならシステムに言えよ。株価チカラのないお前らが悪いんだからな」


第1課の課長が、下劣な笑みを浮かべて言い放つ。

オフィスは阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。力のある派閥が、弱いチームの成果を次々と食い荒らしていく。誰もが自分の身を守るために派閥を作り、少しでも時価総額を膨らませようと狂奔し始めた。


そして――その巨大な捕食者の牙は、当然のように「最も美味しい獲物」へと向けられた。


「よう、佐藤。お前と田中のコンビ、俺たちの『第1課ファンド』に吸収させてやるよ」


第1課の課長が、取り巻きを引き連れて佐藤のデスクへとやってきた。

佐藤の顔から、さっと血の気が引いた。


「田中の組んでるAWSの自動化システム。あれ、会社全体のインフラをひっくり返すほどの価値があるらしいな。……だが、田中の株価は『1,200 MC』で止まってる。佐藤、お前の持ってる株価を足しても、俺たちのファンドの時価総額の足元にも及ばない」


課長は、田中の背中越しに佐藤をねめつけ、ニヤリと笑った。


「買収手続きは午後イチで実行する。あのAWSプロジェクトは俺たちの手柄アセットとして回収させてもらう。お前らは俺たちの子会社として、一生懸命コードでも書いてろ」


「ま、待ってください! 田中の株は俺の全財産なんです! それを子会社化されて配当を半分抜かれたら、俺の冬のボーナスが——!」


佐藤は立ち上がり、かつての上司に必死にすがりついた。

しかし、課長は冷酷に佐藤の手を振り払った。


「市場のルールだろ? 投資家気取りでふんぞり返ってたツケが回ってきたな、佐藤」


第1課の面々が去った後、佐藤は絶望に顔を歪め、田中の肩を激しく揺さぶった。


「おい田中! どうするんだ! お前のプロジェクトが奪われるぞ! お前が目立つIR活動をサボって、株価を上げなかったからこんなことに……!」


佐藤の目は血走り、完全にパニックに陥っていた。

彼は投資家として田中を支配コントロールしているつもりだった。だが、より巨大な資本(機関投資家)の前に晒された瞬間、己がただの無力な小魚に過ぎなかったことを悟ったのだ。


「……佐藤さん」


田中翔(25)は、揺さぶられるがままになりながら、静かに口を開いた。

その声には、焦りも、怯えも、微塵も含まれていなかった。


「彼らが欲しがっているのは、僕が裏で作っている『全社基幹システムをAWSに移行するプロジェクト』の独占権です。それを自分たちの手柄としてリリースして、株価を爆発的に上げるつもりなんでしょう」


「分かってるならどうにかしろよ! 買収を防ぐには、あと3時間で俺たちの時価総額を3倍に引き上げなきゃいけないんだぞ!? そんなこと不可能だ!」


頭を抱える佐藤を見つめながら、田中は小さく息を吐いた。


(朝倉さんの言う通りだ。人間は善意で縛られると動けなくなる。でも……佐藤さんはもう、僕を守ってはくれない。この人はただ、自分の資産が減ることに怯えているだけだ)


田中の中で、佐藤にかけられていた「黄金の手錠」が、カチャリと音を立てて外れた。


「佐藤さん。投資の世界には『ポイズン・ピル(毒薬条項)』という防衛策があるのを知っていますか?」


「ポイズン……ピル?」


「敵対的買収を仕掛けられた時、企業価値を意図的に変化させたり、市場に新株を大量発行したりして、買収者の意図を挫く戦術です」


田中はキーボードに両手を乗せた。

その瞳の奥には、これまで一度も見せたことのない、エンジニアとしての冷徹で、そして強烈な闘志が燃え上がっていた。


「彼らが欲しいのは『独占的なプロジェクトの成果』だ。……だったら、そんなもの、最初からこの世に存在しないことにしてしまえばいい」


カタ、カタカタカタッ……!!


田中の指が、異常な速度でキーボードの上を舞い始めた。

黒いコマンドプロンプトの画面に、コードが滝のように流れていく。


「お、おい田中! 何をしてるんだ!?」

防衛策ポイズン・ピルの実行です。今、僕が構築したAWSのアーキテクチャのソースコードと、自動化APIのエンドポイント、そしてシステムへのアクセス権限を……社内の『全社員』に向けてオープンソースとして完全公開パブリック・デプロイしました」


「は……!? な、何を言ってるんだお前! それじゃあ、誰でもお前のシステムを勝手に使えるようになるじゃないか! お前の『手柄』が消えてなくなるぞ!」


「ええ。これで第1課が僕を買収しても、彼らは『全社員がすでに無料で使っている共有インフラ』を手に入れるだけで、一銭の利益も、いかなる独占的な評価も得られなくなりました。買収する価値のない、ただの空箱です」


田中はEnterキーをターンッ! と力強く叩きターンした。


「ですが、システム(AMM)のアルゴリズムは、人間よりも遥かに正確に『本質的な価値』を評価します」


その直後だった。

オフィスのあちこちから、驚愕の声が上がり始めた。


「おい、なんだこれ! 今月の各部署のインフラ維持費の予測データが、一気に半額以下に急落してるぞ!?」

「業務推進部のサーバーレスポンスが10倍になってる! 田中って奴が、全社の基幹インフラを勝手にAWSのクラウドに繋ぎ変えやがったんだ!!」

「全社のシステムが、劇的に最適化されていく……!」


田中が解放したシステムは、瞬く間に社内のあらゆる非効率な業務を飲み込み、自動化し、数千万円単位のコスト削減を「リアルタイム」で叩き出し始めた。


TXシステムのアルゴリズムは、この「全社に対する圧倒的な利益貢献」を即座に検知した。

アピールや根回しといった下らない人気投票ではない。システムが最も高く評価する『純粋な営業利益の向上』という絶対的なファンダメンタルズ(基礎的条件)だ。


ピコン、ピコン、ピコンッ!!


佐藤の手元にあるスマートフォンの通知が、狂ったように鳴り響いた。

画面に表示された田中の株価チャートが、垂直の壁のような大陽線を描いて天に向かって突き抜けていく。


『1,200 MC』で停滞していた田中の株価は、たったの数分で『2,000 MC』を突破し、さらに上昇を続けて『3,500 MC』という、エースエンジニアの鈴木に迫る超巨大株へと暴騰を遂げたのだ。


「買収……不成立エラー……」


フロアの向こう側で、第1課の課長がスマートフォンを取り落とし、呆然と呟いた。

田中の個人の時価総額が、第1課ファンドの全資産を遥かに上回ってしまったため、システム上で敵対的買収が完全に不可能になったのだ。


「……やった。やったぞ田中!!」

佐藤が歓喜の叫びを上げ、田中の肩を抱き寄せようとした。


しかし、田中はその手を静かに払いのけた。


「……佐藤さん。僕はもう、あなたの指示した安全なコードだけを書く『金融商品』じゃありません。僕はエンジニアとして、自分が正しいと思うコードを書きます。それに投資し続けるか、次のTXウィークで手放すかは、あなたが決めてください」


田中の冷ややかな声に、佐藤はハッと息を呑み、一歩後ずさった。

かつて自分が発掘し、意のままにコントロールしてきたはずの若者は、気づけば自分など手も足も出ない「巨大なバリュー株(怪物)」へと変貌を遂げていた。もう、黄金の手錠は通用しない。


フロア中が田中のシステムの凄まじさに沸き立つ中。

田中は一人、モニターの隅に表示させたままになっている『別のウィンドウ』を、重苦しい目で見つめていた。


(……僕の株価が上がったところで、何の意味もない。会社の根幹は、すでに腐り落ちる寸前なんだ)


GitHubの更新履歴。

そこには、全社員が「絶対に暴落しない安全資産」と信じて疑わない社内の神・鈴木亮平が、今日もまた、無数のバグを隠蔽する汚いパッチを当て続けている痕跡が残されていた。


誰もが気づいていない、巨大な時限爆弾。

狂乱の第3回TXウィーク(期末決算)まで、残りわずか数日。

ミライ・イノベーションの崩壊ブラック・サーズデーは、もう誰にも止められないところまで迫っていた。

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