第8話 誤謬
ミライ・イノベーションのオフィスは、かつてないほどの「奇妙な活気」に満ちていた。
「皆さん、本日の15時から第3会議室で『誰でもできるパワポ作成時短術』のセミナーをやります! ぜひ来てください!」
フロアの中心で、若手社員が自作のチラシを配りながら声を張り上げている。
社内チャットを開けば、『全社宛て』のスパムのようなメッセージがひっきりなしに飛び交っていた。
『【ご報告】営業第3課の〇〇です。今月、C社との契約を無事に更新いたしました! 今後の私の成長にご期待ください!(※TXアプリへのリンク)』
『【新ツール公開】業務推進部より、新しい備品発注フォームをリリースしました。開発者の私への投資(応援)をお待ちしています!』
それは、現実の株式市場で企業が行う「IR(投資家向け広報)活動」そのものだった。
TXシステムが導入されてから数ヶ月。
社員たちは完全に理解していた。「地道に目の前の業務をこなす」よりも、「自分の成果をいかに派手に全社へアピールするか」の方が、自らの株価(=冬のボーナス)に直結するということを。
その結果、社内には異様な「アテンション・エコノミー(関心経済)」が蔓延していた。
目立つプロジェクトには人が殺到し、誰もやりたがらない地味な保守作業や、他部署のサポート業務は完全に放置されるようになった。チームで協力して成果を上げるよりも、手柄を独り占めして自分の名前でアピールすることが最優先される。
さらには、開発中の新機能のリリースをわざと遅らせ、株価の変動が起こる「TXウィーク」の直前に発表することで、意図的に株価を吊り上げる(パンプさせる)といった姑息な手法まで横行し始めていた。
誰もが、自分の株価を上げることに熱狂している。
誰もが、合理的に、自らの利益を最大化しようと努力している。
しかし——その「全員の合理的な努力」が組み合わさった結果、会社という巨大な船は、確実に沈没へと向かいつつあった。
***
「……今月の全社営業利益、前年同月比で『マイナス15パーセント』です」
最上階の社長室。
巨大なモニターに映し出された無惨な右肩下がりのグラフを見上げながら、朝倉零(26)は楽しそうに口角を上げた。
「素晴らしい。完璧な『合成の誤謬』ですね」
合成の誤謬。ミクロの視点では合理的な行動であっても、それが集団として合成されると、予期せぬ不合理な結果を招いてしまうという経済学の用語だ。
「社員たちは今、顧客(外)を見ていません。自分の株を買ってくれる同僚(内)だけを見て、内輪向けの派手なアピールと足の引っ張り合いに全精力を注いでいる。当然、本業の営業成績は落ち込み、開発のスケジュールは遅延します」
朝倉の報告を、社長の九条は腕を組んだまま無言で聞いていた。その表情からは、怒りも焦りも読み取れない。
「社長。このままいくと、期末の配当プール金(ボーナス原資)は当初の予定の半分以下に縮小します。つまり、社員たちがいくら社内で株価を釣り上げて札束の殴り合いをしようと、最終的に換金される時には『1 MCあたりの価値』が暴落し、全員が損をすることになる。……どうします? そろそろシステムに『テコ入れ』をしますか?」
朝倉の挑発的な視線に対し、九条は冷たく言い放った。
「必要ない。放置しろ」
「ほう?」
「私は『才能が正当に評価される市場』を作ると言った。だが、社員たちがそれを『人気投票のゲーム』だと勘違いして自滅するなら、それもまた市場の正しい自浄作用だ。……痛みを伴わなければ、本物の価値は残らない」
九条の目は、血みどろのデスゲームを観察する冷徹な支配者のそれだった。
***
「おい田中! お前もただコード書いてないで、なんか目立つことやれよ!」
営業部のフロア。
佐藤健太(35)は、自席のモニターでTXアプリのチャートを血走った目で見つめながら、隣の田中に八つ当たり気味に声を荒げた。
「他の奴らは自分のツールの発表会だのなんだのって、毎日IR活動やって株価を維持してるんだぞ! なのに、お前の株価は先週から『1,200 MC』のままピタリと止まって、完全に横ばいじゃないか!」
佐藤の焦りには理由があった。
周囲が異常なアピール合戦を繰り広げ、全体の株価がインフレを起こしている中、何もアピールしない田中の株は、相対的に「魅力のない銘柄」として市場から忘れ去られようとしていたのだ。資金が他の派手な銘柄に流れていけば、いずれ田中の株は暴落する。
「お前が前に裏でこっそり直したっていう、第1課の承認フローの件! あれだって、お前がやったって大々的に全社チャットで宣伝すれば、もっと株価が跳ねたはずなんだ! なのにお前は——」
「佐藤さん」
田中はキーボードを叩く手を止め、静かな、しかし芯のある声で佐藤の言葉を遮った。
「会社の今月の売り上げ速報、見ましたか?」
「は? 売り上げ? そんなもん俺たちの株価に関係ないだろ」
「関係あるんです」
田中は、佐藤の目を真っ直ぐに見据えた。
「TXシステムのボーナス原資は、会社の『営業利益』と連動しています。皆が自分のアピールばかりして本業をおろそかにしている結果、会社の利益は急激に落ち込んでいる。……このまま全体のパイが縮小すれば、僕がいくら株価を上げようと、佐藤さんの手元に入る実際の現金は減るんですよ」
「なっ……」
佐藤は息を呑んだ。投資家として致命的なマクロ経済の視点(会社の業績)を、完全に忘却していたことに気づかされたのだ。
「誰の目にも止まらなくても、今は目の前の実務と、インフラの地盤を固めることが最優先です。それが最終的に、会社の利益(僕たちの配当)を守ることに繋がりますから」
そう言い残し、田中は再びモニターに向かい、AWSのコンソール画面を開いて沈黙した。
(田中……こいつ、いつの間にこんな顔をするように……)
佐藤は、かつて自分が「意のままに操れる」と見下していたペニー株の背中が、急に得体の知れない巨大な岩のように感じられ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
田中の目は、もはや社内の下らない人気投票など見ていなかった。
彼は「エンジニアとしての純粋な使命」を取り戻しつつあった。
しかし、そんな田中の視界の端で、ある異常なデータがひっそりと蠢いていた。
(……おかしい)
田中は、社内の開発部が共有しているソースコードの管理ツール(GitHub)のログを、訝しげに見つめていた。
彼が見ているのは、社内のトップ銘柄であり、誰もが完璧だと信じて疑わないエースエンジニア・鈴木亮平のコミット(更新)履歴だった。
深夜2時、3時、4時。
連日連夜、異常な時間帯に鈴木のアカウントからコードが追加されている。
しかも、その中身は、かつての鈴木の「芸術的で無駄のない美しいコード」とは似ても似つかない、エラーを力技で握り潰すだけの汚いスパゲティコード(Hotfix)だった。
(鈴木さんのコードが、こんなに荒れているなんて……。まるで、何か決定的なバグを隠すために、場当たり的なパッチを当て続けているみたいだ)
田中は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
現在、鈴木の株価は『4,500 MC』。
社員の8割が、自分の資産の核として鈴木株を保有している。鈴木はまさに、このミライ・イノベーションという会社の「信用そのもの」だった。
その大黒柱の内部が、シロアリに食い荒らされたようにボロボロに腐り始めているのだ。
「……もし、鈴木さんの抱えているバグが爆発したら」
田中は無意識に呟いた。
会社の基幹システムが止まる。莫大な損害賠償が発生し、会社の利益(配当プール)は一瞬で吹き飛ぶ。
そして何より、誰もが「絶対に安全な神」だと信じて全財産を預けている『鈴木株』に、前代未聞のパニック売りが殺到するだろう。
(……逃げ場のない、連鎖倒産が起きる)
誰もが自分の利益ばかりを追い求め、踊り狂っている狂乱の市場。
その足元で、破滅の時限爆弾のタイマーは、すでに「ゼロ」へと向かってカウントダウンを始めていた。




