第7話 結託
深夜。
キャスター付きのチェストとマットレスだけが置かれた、極限まで無駄を削ぎ落とした田中の6畳半の自室。モニターの青白い光だけが、暗闇の中で田中の顔を無機質に照らし出していた。
田中翔(25)は、開発部の天才・朝倉から渡されたUSBメモリをPCに挿し込み、指定されたバックドアのURLを叩いた。
真っ黒なコマンドプロンプトの画面に、緑色の文字列が滝のように流れ落ちていく。それは、ミライ・イノベーション全社員のTXシステムにおける、裏の「資金移動ログ」だった。
「……朝倉さんの言う通りだ。人事部の篠原部長と取り巻きたちが、プロジェクト発表の直前に『中崎株』を底値で大量に買い集めている」
明らかなインサイダー取引の痕跡。
だが、田中の目を真に釘付けにし、背筋を凍らせたのは、そこからさらにログを深く掘り下げた時に見つけた『別の異変』だった。
TXシステムの市場には、株価の下落を見込んで利益を得る「空売り(ショート)」の機能が存在しない。誰もが他人の才能を純粋に応援し、共に成長するためという、社長の九条が定めた「善意のルール」だ。
しかし、人間はルールの抜け穴を見つける天才である。
ボーナスの原資となる「ミライ・コイン」の総プール額が会社の営業利益によって上限が決まっている以上、この市場は結局のところ、限られたパイを奪い合う『ゼロサム・ゲーム(誰かが勝てば誰かが負ける)』の側面を孕んでいる。
「空売りができないなら、どうやって他人の株価を下げて、相対的に自分たちの価値を上げるか……。そうか、そういうことか……!」
田中の指が小刻みに震えた。
ログが示していたのは、営業部第1課のベテラン課長を中心とした、約20名の社員たちによる「資金の巨大なプール」――すなわち『派閥という名の機関投資家』の誕生だった。
彼らは互いに資金を出し合い、自分たち第1課のメンバーの株だけを集中して買い支えている。それだけなら「身内びいき」で済む。
問題は、彼らが意図的に『他部署の業務を妨害』していることだった。
翌日の午後。
ミライ・イノベーションのオフィスは、異様な緊張感に包まれていた。
「すいません、第1課さん! 昨日お願いしていたA社向けの顧客リストと見積もりの承認、まだ降りてないんですが……! このままだと今日のプレゼンに間に合いません!」
フロアの向こう側で、営業第2課の若手社員が、第1課のベテラン社員に向かって必死に頭を下げていた。悲痛な声がフロアに響く。
「あー、ごめんごめん。今ちょっと第1課の案件で立て込んでてさ。手の空いた時に承認しておくから、もう少し待ってよ」
ベテラン社員は、キーボードから手を離すことなく、モニターから目を逸らさずに生返事をした。その画面には、急ぎの仕事など何一つ表示されていないことを、少し離れた席にいる田中は知っていた。
意図的な業務遅延。
第1課は、同じ営業部である第2課の足を引っ張ることで、第2課の成績を故意に落とそうとしているのだ。第2課のプロジェクトが失敗し、彼らの株価が暴落すれば、同じ予算枠を取り合う第1課の株価は『相対的に』跳ね上がる。
直接的な空売りが禁止されているなら、実務において他人の足を引っ張ればいい。それが、彼らが見つけた「確実に勝てる投資戦略」だった。
「……ひどい。あれじゃ第2課のコンペ、絶対に間に合わない」
田中が思わず立ち上がりかけたその時、ドン、と強い力で肩を押さえつけられた。
「座れ、田中」
いつの間にか背後に立っていた佐藤健太(35)が、冷ややかな声で田中の耳元に囁いた。田中の筆頭株主であり、彼の行動のすべてを管理しようとする男だ。
「佐藤さん、でも……あのままだと第2課の彼がコンペに落ちて、今期の評価が……」
「だから何だ。俺たちに何か関係あるのか?」
佐藤の言葉には、一片の感情もこもっていなかった。
ただ、株価のチャートを分析するような、冷徹な響きだけがあった。
「いいか、田中。俺もお前も、第2課の奴らの株は1株も持っていない。むしろ、あいつらがコンペに落ちて株価を下げてくれた方が、俺たちが持っている銘柄の価値が相対的に上がるんだ。他人の不幸は、この市場では『最高の好材料』なんだよ」
佐藤は田中の肩をポンと叩き、薄く笑った。
「下手に首を突っ込んで、第1課の連中に目をつけられてみろ。お前の株が売り叩かれるリスクがある。お前は俺の最高のポートフォリオなんだ。余計な波風は立てず、お前はただ言われた通りの安全なコードだけを書いていればいい」
佐藤はそう言い残し、自分の席へと戻っていった。
田中はギリッと奥歯を噛み締めた。
佐藤の言っていることは、投資家としては『100パーセント正しい』。リスクを排除し、他者の没落を静観して自らの利益を最大化する。それが資本主義における正解だ。
でも、エンジニアとしてはどうだ?
すぐ目の前で、システムの不備や組織の歪みによって、仕事に絶望している人間がいる。自分の技術を使えば、それを数秒で解決できるのに、自分の「株価(保身)」のために見捨てるのか?
(『田中さん。あなたは金融商品ですか? それとも、エンジニアですか?』)
昨夜、朝倉から投げかけられた問いが、田中の脳裏で警鐘のように鳴り響いた。
主人公には、欠点がある。
田中の欠点は「波風を立てることを極端に恐れ、他人の評価に自分の人生を委ねてしまう受動的な性格」だった。だからこそ、佐藤という大株主の『善意の過干渉』という名の鎖に縛られ、身動きが取れなくなっていた。
だが、田中の中には、どうしても譲れない『目的』があった。
複雑なものを整理し、自分の書いたコードで、不条理な業務に苦しむ人間を救いたい。それが彼がエンジニアとして生きる、唯一の証明だった。
(……僕は、誰かの資産を増やすための金融商品じゃない)
田中は深呼吸をすると、佐藤に隠れるようにして、手元のキーボードに指を走らせた。
(第1課の承認フローが意図的にストップさせられているなら、裏口からデータを引き抜けばいい)
田中は、以前密かに構築していたAWSの環境にアクセスした。
Amazon EventBridgeをトリガーにしてLambda関数を起動させ、第1課が意図的に滞留させている社内の顧客データベースのAPIエンドポイントを直接叩くスクリプトを、猛烈な速度で書き上げる。
カタ、カタカタカタッ……!
凄まじいタイピング音。
それは、田中が佐藤の「手錠」を自らの意志で引きちぎり、反逆の狼煙を上げた音だった。
数分後。
「……えっ?」
フロアの向こう側で、絶望して頭を抱えていた第2課の若手社員が、自席のモニターを見てすっとんきょうな声を上げた。
「データが……来てる。第1課の承認を通らずに、直接僕のフォルダに、A社向けの完璧なリストと自動生成された見積もりのPDFが落ちてきました……! これで、コンペに間に合います!!」
歓喜に沸く第2課のデスク。
一方、第1課のベテラン社員たちは「なんだと!? 誰が承認のロックを外した!」と血相を変えてシステムを操作している。しかし、田中の組んだLambdaの実行ログはすでに自動で消去されており、誰がデータを引き抜いたのかは完全にブラックボックス化されていた。
「……ふぅ」
田中はEnterキーを押し終わると、静かに息を吐き出し、何食わぬ顔で通常のエクセルの画面に戻した。
心臓が、かつてないほど激しく早鐘を打っている。
もし佐藤にバレれば、激怒されるだろう。第1課の派閥にバレれば、どんな報復を受けるか分からない。
しかし、田中の胸の奥には、これまで感じたことのない熱い炎が灯っていた。
評価や株価に怯えるのではなく、自分の技術で、理不尽なシステムに抗うことができたのだ。
「……少しは、エンジニアらしい顔になりましたね」
遠く離れた開発部の暗いブースから、監視カメラ越しに田中の行動を観察していた朝倉が、薄く笑った。
絶対的な権力で市場を歪める人事部のインサイダー。
他者を突き落として利益を貪る派閥という名の機関投資家。
そして、己の技術を武器に、静かな反逆を始めた一人のペニー株。
純粋な善意と希望で始まった仮想株式市場(TX)は、人間の欲望を飲み込みながら、修復不可能な狂乱の渦へと突き進もうとしていた。




