第6話 死角
「市場は常に正しい、だと? 笑わせるな。市場は『情報を持つ者』にのみ、永遠に搾取されるようにできているんだよ」
ミライ・イノベーションの人事部長室。
長年、評価という名の絶対的な権力を握ってきた篠原(55)は、誰もいない部屋で一人、歓喜に打ち震えていた。
彼らが作ったTXシステムは、確かに過去の実績や現在のスキルを評価するには完璧に機能している。だが、株式市場において最も価値のあるものは「現在の業績」ではなく『未来の情報』だ。
現実の株式市場であれば、企業の未公開情報を利用して株を売買する行為は「インサイダー取引」として金融商品取引法で厳しく罰せられる。しかし、この社内仮想市場には、それを取り締まる法律も監査機関も存在しない。
篠原は、人事部長という特権を活かし、来期に政府系の大型案件(予算5億円)のリーダーに抜擢される予定の「中崎」という中高年社員の株を、情報公開の3日前に底値で大量に買い占めていた。
そして本日、全社にそのプロジェクトが大々的に発表された瞬間、中崎の株価は一気に9倍に跳ね上がった。
画面の中で輝く、莫大な含み益。
(評価権限を奪われても、私には『異動』と『配置転換』の権限がある。事前に誰がどのプロジェクトにアサインされるかを知り、あるいは意図的に配置を操作すれば、この市場の胴元として永遠に勝ち続けられる……!)
篠原の顔に、底意地の悪い笑みが浮かぶ。
「才能の民主化」などという綺麗事は、権力者の持つ情報の非対称性によって、いとも容易く蹂躙されようとしていた。彼のような「強大な敵」の暗躍が、このシステムを真のディストピアへと変貌させていく。
***
同じ頃。
オフィスの片隅にある、普段は誰も寄り付かない薄暗いサーバルームの隅で、田中翔(25)は床に座り込み、ノートPCを開いていた。
『田中、午後の会議の資料はできたか? ミスがないよう俺がダブルチェックするから、必ず送信前に見せろ』
『変なツールを勝手に導入するなよ。お前は安全第一だ』
社内チャットには、田中の筆頭株主である先輩・佐藤からのメッセージが、手錠のように重くのしかかっていた。
(僕は……何をしているんだろう)
田中は、PCの画面に映るAWSの美しいアーキテクチャ図を見つめた。
彼には、全社のシステムを劇的に改善し、数千万円のコストを削減する技術がある。しかし、佐藤からの「失敗して株価を下げるな」という過干渉によって、その挑戦は完全に封じられていた。
田中の最大の欠点は「波風を立てることを極端に恐れる受動的な性格」だった。
評価されたい、自由にコードを書きたいという『目的』を持ちながらも、自分に投資してくれた佐藤への負い目や、失敗して他人の資産を吹き飛ばす恐怖から、自ら首輪をはめ、安全な檻の中に引きこもってしまっているのだ。
「……随分と立派な飼い犬になりましたね、バリュー株さん」
ふいに頭上から声が降り注ぎ、田中はビクッと肩を震わせた。
見上げると、ヨレヨレのパーカーを着た開発部の天才エンジニア、朝倉零(26)が、冷たい目をして立っていた。このTXシステムをたった一人で組み上げた男だ。
「朝倉さん……どうしてここに?」
「ログを見れば、あなたがここで息を潜めていることくらいすぐに分かりますよ。トップ銘柄の鈴木さんもそうですが、高値のついた人間は、みんな息苦しそうに逃げ場を探す」
朝倉は田中の隣にしゃがみ込み、彼のPC画面を覗き込んだ。
「美しいコンテナ設計だ。ECSとFargateで基幹をリプレイスする気ですね。……でも、あなたはそれをデプロイしない。株主である佐藤さんに『やめろ』と止められたから」
図星を突かれ、田中は俯いた。
「佐藤さんは、僕の才能を一番最初に見つけてくれた恩人です。僕の株価が暴落すれば、佐藤さんのボーナスも吹き飛ぶ。……投資家の期待を裏切るなんて、できませんよ」
「恩人?」
朝倉は鼻で笑った。
「勘違いしないでください。彼はあなたという『人間』を助けたんじゃない。あなたの背中についている『値札』を買っただけです。そして今、あなたは他人の資産を守るために、一番やりたかったエンジニアとしての挑戦を捨てようとしている」
朝倉の言葉は、鋭いナイフのように田中の胸をえぐった。
「人間は、明確な悪意には反発できる。でも『あなたのためを思って』『期待している』という善意で縛られると、途端に身動きが取れなくなる。それがあなたの欠点だ」
朝倉はポケットからUSBメモリを取り出し、田中の膝の上に放り投げた。
「……これは?」
「TXシステム内における、特定アカウントの資金移動ログを可視化するバックドアのURLです」
朝倉は立ち上がり、冷徹な声で告げた。
「見てみなさい。このシステムは完璧ですが、人間は完璧じゃない。人事部の篠原部長は、異動情報のインサイダー取引で莫大な利益を出し始めました。システムというものは、ルールを盲信する者から順に搾取されていくようにできているんです」
田中は膝の上のUSBメモリを握りしめた。
「どうして、僕にこんなものを……?」
「僕が『助け人』だからですよ。……なーんてね。単純に、飼い主の顔色を伺って小さくまとまっているバリュー株を見るのが、退屈だっただけです」
朝倉は踵を返し、サーバルームの出口へと向かった。
「田中さん。あなたは金融商品ですか? それとも、エンジニアですか?」
最後に残されたその問いかけが、田中の脳裏に重く響いた。
扉が閉まり、再び静寂が戻ったサーバルーム。
田中は一人、握りしめたUSBメモリと、自分の書いたAWSのコードを交互に見つめていた。
誰かに評価されることだけを望んでいた。
だが、他人の評価(株価)に自分の行動のすべてを委ねた結果、手に入れたのは黄金の手錠だった。このまま佐藤の言いなりになっていれば、確かに安全に金は手に入る。だが、それは本当に自分が求めていたものなのか?
(僕は……ただ、自分の書いたコードで世界を変えたかっただけだ)
田中の中で、何かが小さく、しかし確実に音を立ててひび割れ始めていた。
主人公が自らの欠点に直面し、真の目的に向かって足掻き始めるための、決定的なヒント(助言)。
天才エンジニアの残した劇薬が、田中の静かな反逆の炎に火をつけようとしていた。




