第5話 粉飾
ミライ・イノベーションの開発部エースエンジニア、鈴木亮平(32)は、洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、力なく自嘲した。
目の下には濃いクマが張り付き、肌はカサつき、目は血走っている。
毎朝、完璧なスーツを着こなし、爽やかな笑顔で出社する「理想の好青年」の裏側は、今や限界ギリギリの疲労でボロボロになっていた。
TXシステムにおいて、鈴木の存在は特別だった。
初期株価は社内最高値の『3,000 MC』。第1回のTXウィークを経て、その価格は『4,500 MC』という圧倒的な高値で安定していた。
社内の誰もが知っている。鈴木亮平は、絶対に失敗しない。
彼の書くコードは美しく、プロジェクトマネジメントは完璧で、後輩の面倒見も良く、他部署からの理不尽な要求にも笑顔で応える。
だからこそ、社員の実に8割以上が、自分のポートフォリオの核(コア資産)として「鈴木株」を保有していた。
新入社員から、定年を控えた窓際族、さらには社長の九条に至るまで。鈴木亮平という銘柄は、絶対に暴落しない安全資産――ミライ・イノベーションにおける『S&P500』そのものだった。
「鈴木さん、おはようございます! 今期の新機能リリース、順調そうですね!」
「ああっ、鈴木さん! この間のトラブル対応、本当にありがとうございました。おかげで助かりましたよ」
オフィスを歩けば、四方八方から称賛と期待の声が飛んでくる。
鈴木はいつものように、完璧で爽やかな笑顔を張り付けて応える。
「おはよう。ええ、スケジュール通りに進んでいますよ。トラブルの件も、いつでも頼ってくださいね」
彼の背中を見送る同僚たちの目は、ただの尊敬ではない。「自分たちの資産を安全に増やしてくれる絶対的な神」を見る目だ。
(……重い)
自席についた瞬間、鈴木は胃の奥が鉛のように重くなるのを感じた。
先日、シングルマザーである総務部の女性社員から、給湯室で涙ながらに手を握られた。
『鈴木さんの株のおかげで、来年から娘を希望の塾に通わせてあげられるんです。本当に、本当にありがとうございます。これからもずっと、応援していますからね』
それは、何よりも純粋な善意と感謝の言葉だった。
だが、今の鈴木にとって、それは呪い以外の何物でもなかった。
(僕が一度でも失敗して株価を落とせば、あの人の娘の塾代が消える。住宅ローンを抱えた先輩の返済計画が狂う。僕の背中には今、数百人の人生と、数億円規模の『生活』が乗っかっているんだ)
絶対に、絶対にミスは許されない。
金融商品となった自分には、「人間らしい失敗」も「弱音」も許されないのだ。
そのプレッシャーは、鈴木の日常を静かに、だが確実に狂わせていた。
彼は後輩が担当するコードもすべて裏で徹夜で再チェックし、他部署からの無茶な納期も、己の睡眠時間を削ることで強引に間に合わせるようになっていた。完璧な「鈴木亮平」という偶像を維持するために。
そして迎えた、3月の第3週。
四半期の評価が決まる『第2回 TXウィーク』まで、残り数日に迫った深夜2時のことだった。
誰もいないオフィスで、鈴木は血の気の引く思いでモニターを凝視していた。
明日、全社に向けて大々的にリリースされる予定の大型CRM(顧客管理)モジュール。その後輩が書いた最終コードの中に、致命的なロジックの欠陥――特定の条件下で、顧客の請求データが他社と入れ替わってしまうという、恐ろしいバグを見つけてしまったのだ。
「……嘘だろ。なんでこんな初歩的なミスに、テスト段階で気づかなかったんだ」
鈴木は頭を抱えた。
今からこのバグを正規の手順で修正し、テストをやり直せば、明日のリリースには絶対に間に合わない。スケジュールは最低でも2週間は遅延する。
(リリースが遅延すれば、今期の僕のチームの評価は下がる。……目前に迫ったTXウィークで、僕の株価は確実に下落する!)
株価が下がればどうなるか。
自分を信じて全財産を預けてくれている同僚たちの資産が吹き飛ぶ。あのシングルマザーの娘の塾代が消える。自分に向けられていた称賛の目が、一瞬にして「裏切り者」を見る憎悪の目へと変わる。
(ダメだ。それだけは、絶対に避けなきゃいけない……!)
恐怖で呼吸が浅くなる中、鈴木の脳裏に「ある悪魔の囁き」がよぎった。
(……応急処置のパッチ(Hotfix)だけを当てて、この場を凌ごう)
それは、エンジニアとしての倫理観を完全に捨てる行為だった。
根本的なバグの原因を放置したまま、表面上だけエラーが出ないようにする汚いスパゲティコードをねじ込む。それは、後々さらに巨大なシステム障害を引き起こす「技術的負債」という名の時限爆弾だ。
しかし、この時限爆弾が爆発するのは、おそらく半年後か1年後。
少なくとも、明日のリリースは「完璧に」成功し、目前のTXウィークで自分の株価が暴落することは防げる。
「僕は……金融商品なんだ。商品に、傷があってはいけないんだ」
うわ言のように呟きながら、鈴木は震える指でキーボードを叩き始めた。
エラーを握り潰す強引なコードを書き殴り、品質保証部へ提出するテスト結果のログデータを、自らの手で改ざんしていく。
企業が自らの損失を隠し、利益が出ているように見せかける犯罪行為。
そう、これは一人の人間による『粉飾決算』だった。
深夜のオフィスに、カタ、カタ、と無機質な打鍵音だけが響く。
圧倒的な善意と期待から生まれたプレッシャーが、かつて誰よりも誠実だったエースエンジニアに、最悪の背任行為を行わせていた。
同じ頃。
そのフロアのずっと奥、サーバーの稼働状況を監視する暗いブースの中で、ヨレヨレのパーカーのフードを被った開発部の末端、朝倉零(26)が、ニヤリと唇を歪めていた。
朝倉のモニターには、鈴木が今まさにログを改ざんし、不正なコードをねじ込んでいるバックエンドの動きがリアルタイムで映し出されていた。
「……素晴らしい。ついに『粉飾』に手を染めましたか、完璧な優等生さん」
朝倉は、まるで観察ケースの中のモルモットの面白い挙動を見つけた学者のように、目を細めた。
「人間というのは、自分の欲より『他人の期待(善意)』を背負わされた時の方が、あっさりと倫理を捨てる。……九条社長、あなたの言う『透明でフェアな市場』は、人間には少しばかり劇薬すぎたようですね」
朝倉は独り言を呟くと、鈴木の不正ログを静かにアーカイブへと保存した。
彼がこの事実を告発することはない。これはシステムが引き起こした美しいバグ(人間性の崩壊)の、貴重なサンプルデータなのだから。
絶対的なトップ銘柄が抱え込んだ、見えない時限爆弾。
ミライ・イノベーションという名の巨大な実験場は、狂乱の第2回TXウィークに向けて、後戻りできない破滅の坂を転がり始めていた。




