第10話 葛藤
深夜のオフィス。
空調の低い稼働音だけが響く中、田中翔(25)は自席のモニターを食い入るように見つめていた。
画面に表示されているのは、エースエンジニアである鈴木亮平(32)が書いた、大型CRM(顧客管理)モジュールのソースコードだ。
先日、田中が偶然見つけた「不自然な深夜のコミット履歴」。気になってバックドアから該当箇所のコードを覗き見した田中は、その中身を解析し、全身の血の気が引くのを感じていた。
「……最悪だ。トランザクションの非同期処理に、致命的な競合状態が起きている」
田中は震える唇で呟いた。
鈴木が書いたコードは、平常時のアクセス量であれば何の問題もなく動く。しかし、月末の締め日にアクセスが集中し、サーバーに極限の負荷がかかった時、スレッドの処理が入れ替わり『A社の請求データが、全く無関係のB社に送信されてしまう』という恐ろしいバグを抱えていたのだ。
顧客の請求データや個人情報の漏洩。
もしそれが現実に起きれば、ミライ・イノベーションの社会的信用は完全に失墜し、数億円規模の損害賠償が発生する。会社の営業利益は吹き飛び、当然、冬のボーナス(配当プール)もゼロになる。
(なぜ、こんな初歩的で致命的なバグに、あの鈴木さんが気づかなかったんだ?)
いや、気づいていたはずだ。
ログを見れば一目瞭然だった。鈴木はバグの根本原因を解消するのではなく、エラーの警告だけを強制的にミュートし、表面上は正常に動いているように見せかける「汚いパッチ」を上から貼り付けていた。
それはエンジニアの倫理として絶対に許されない、明確な『粉飾』だった。
(今すぐ品質保証部(QA)に報告して、明日の本番リリースを止めなきゃいけない。システムを数日止めてでも、根本からコードを書き直さないと会社が死ぬ!)
田中が社内チャットを立ち上げ、QAチームの宛先を入力しようとした、その時だった。
「……田中、君。何を見ているんだ?」
背後から、幽鬼のような声がした。
ビクッと振り返ると、そこには血走った目をし、顔面を蒼白にした鈴木本人が立っていた。完璧なスーツを着こなし、常に爽やかな笑顔を絶やさなかった「トップ銘柄」の面影は、見る影もなく崩れ去っている。
「鈴木さん……。このCRMのバックエンド、非同期処理に致命的なバグがあります。エラーを握り潰していますね。このまま明日リリースしたら、月末のピーク時に確実にデータが吹っ飛びます」
田中は立ち上がり、静かに、しかし毅然と言い放った。
「今すぐリリースを止めてください。僕も手伝いますから、徹夜でコードをロールバックして——」
「ダメだ!!」
静まり返ったフロアに、鈴木の悲痛な叫び声が響いた。
鈴木は田中の両肩をガシッと掴み、懇願するような、あるいは脅すような狂気を帯びた目で田中を睨みつけた。
「今リリースを止めて、プロジェクトの遅延が全社に発表されてみろ! 明日から始まる『第3回 TXウィーク』で、僕の株価はどうなる!? ストップ安だぞ!!」
「株価なんてどうでもいいじゃないですか! 会社の信用が第一です!」
「どうでもよくないんだよ!!」
鈴木の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「田中君……君は知らないだろう。僕の株は今『4,500 MC』だ。全社員の8割が、自分のボーナスの核として僕の株を握っている。総務部のシングルマザーの娘の塾代も、ローンを抱えた先輩たちの人生も、全部僕の背中に乗っかってるんだよ!」
鈴木の震える声が、田中の胸に重く突き刺さる。
「もし僕の株価が暴落したら、彼らの資産は一瞬で紙切れになる。僕は……彼らの善意と期待を裏切れない。絶対に失敗できないんだ! だから……お願いだ、田中君。このバグは見なかったことにしてくれ。月末のピークが来る前に、僕が絶対に裏でこっそり直すから……!」
それは、あまりにも哀れで、惨めなトップ銘柄の末路だった。
「才能を評価されるユートピア」の頂点に立った男は、何百人という同僚の『人生』を背負わされた結果、人間らしい失敗を許されず、エンジニアとしての魂まで売り渡してしまっていたのだ。
鈴木がふらふらと去った後、田中は一人、自席に崩れ落ちた。
告発のジレンマ。
エンジニアの倫理に従い、今すぐバグを全社に告発すれば、致命的なシステム障害は防げる。会社は助かる。
だがその瞬間、鈴木の株価は確実に大暴落する。鈴木を信じて全財産を預けていた善良な同僚たちは、ボーナスを失い、人生設計を狂わされ、地獄を見る。
田中の筆頭株主であり、なんだかんだと田中を気に掛けてくれていた先輩の佐藤でさえ、ポートフォリオの半分以上は『絶対に安全な鈴木株』で構成されているのだ。
(僕が告発のエンターキーを叩けば……佐藤さんや、皆の資産を僕の手で吹き飛ばすことになる。僕が、皆の人生を壊す悪者になる……)
田中の欠点は「波風を立てることを恐れ、他人の痛みに過剰に共感してしまうこと」だ。
かつて佐藤の言いなりになっていた頃と同じ。他人の期待や生活が肩に重くのしかかり、田中の指をキーボードから遠ざける。
「……苦しそうですね、バリュー株さん」
ふと、暗闇の中からヨレヨレのパーカーを着た朝倉零(26)が姿を現した。
彼は田中の苦悩をまるで楽しむかのように、薄く笑っている。
「朝倉さん。あなたは、このシステムがこうなることを……人間が重圧で壊れることを、最初から分かっていたんですか?」
「ええ。人間は、欲よりも『他人の善意(期待)』で簡単に壊れる生き物ですから。システムは完璧に、その人間の脆弱性をあぶり出しているだけです」
朝倉は田中のモニターを指差した。
「さあ、どうしますか? エンジニアとしての正義を貫いて、同僚たちの資産を容赦なく焼き払うか。それとも、優しい同僚としてバグを見逃し、システムが崩壊して会社が沈むのを待つか。……どちらを選んでも、地獄ですよ」
翌朝。午前9時00分。
『第3回 TXウィーク(期末売買期間)がオープンしました』
社員たちのスマートフォンが、一斉に歓喜の通知音を鳴らした。
冬のボーナス額を決定づける、最後の「札束の殴り合い」の始まりだ。
フロアでは、誰もが自らの株価を上げようと狂奔し、他者の株を買い漁り、少しでも多くの利益を確定させようと血眼になっている。
「鈴木さんの大型リリース、無事に完了したらしいぞ!」
「よし、これで今期の配当は満額確定だ! 鈴木株を買い増せ!!」
「俺たちの神様、鈴木さんに一生ついていくぜ!」
何も知らない同僚たちの無邪気な歓声が、田中の耳には死へのカウントダウンのように響いていた。
田中は自席で、全社チャットの入力欄にカーソルを合わせている。
そこには『緊急警告:CRMモジュールに致命的な欠陥あり。即時ロールバックを要求します』という一文が、すでに打ち込まれていた。
このEnterキーを叩けば、フロアの歓声は一瞬で悲鳴に変わり、阿鼻叫喚のパニック売り(パニック・セル)が引き起こされるだろう。
(僕は……どうすればいい……?)
震える指が、空中で止まったまま動かない。
エンジニアとしての魂か。それとも、同僚たちへの同情か。
しかし、運命は田中の決断を待ってはくれなかった。
午後1時。
田中の手元で警告が鳴るよりも早く。
オフィスの中心で、顧客サポートチームの女性社員が、鼓膜をつんざくような悲鳴を上げたのだ。
「システムエラー!? 請求書の宛先が、全部別のお客様のデータと入れ替わって送信されています!!」
その一言が、ミライ・イノベーションという巨大な砂上の楼閣を根底から崩壊させる、最初の引き金だった。
時計の針が、ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)の始まりを告げていた。




