第20話 憂鬱
社長という絶対的な管理者が消え去り、全社員が株主となったあの日から、ちょうど一年後。
初夏の陽光が差し込むミライ・イノベーションのオフィスには、かつてのような狂騒も、息の詰まるような静寂もなかった。
そこにあるのは、活気に満ちた「心地よいノイズ」だ。
「おいおい、営業第3課! 来期の新規インフラ構築の予算案、まだ『承認(Approve)』のトランザクション投げてないだろ! 締め切り今日の15時だぞ!」
フロアの中心で、佐藤健太(36)がワイシャツの袖をまくり上げ、タブレットを片手に大声を張り上げている。
現在のミライ・イノベーションは、完全な自律分散型組織(DAO)として稼働している。
社長のトップダウンで物事が決まることはない。システム改修から予算の承認まで、すべては全社員によるブロックチェーン上の「投票」によって決まる。
それは極めて民主的でフェアな反面、全員の意見をまとめるための「泥臭い根回し」がかつての何倍も必要になるという、途方もなく面倒くさいシステムでもあった。
「うるせえな佐藤! こっちは今、クライアントの要件定義で火ィ吹いてんだよ! 後で押しとくから!」
「『後で』じゃなくて『今』押せ! ほら、この画面のボタンだ! お前らが承認しないと、鈴木の開発チームの予算が下りなくてサーバー増強が止まるんだよ!」
佐藤は、文句を言う社員たちのデスクを一つ一つ回り、時に冗談を飛ばし、時にすごみながら、アナログな「人間力」で合意をかき集めて回っている。
かつて他人の才能にタダ乗りしていただけの凡人は、今やこの面倒くさいDAOのシステムを回すための、最強の「人間インターフェース」として社内外から絶大な信頼を集めていた。
「佐藤さんのおかげで、無事に過半数の承認が取れたよ。これでバックエンドのデータベース拡張ができる」
窓際のデスクで、鈴木亮平(33)がコーヒーカップを片手に柔らかく微笑んだ。
かつて重圧に押し潰され、バグを隠蔽してまで完璧な神を演じようとしたトップ銘柄の面影はない。今の彼は、他人の期待という鎖から解き放たれ、純粋にコードを書くことを楽しむ真の天才エンジニアに戻っていた。
「お疲れ様です、佐藤さん、鈴木さん。マイグレーション(移行)のスクリプトは、僕のほうで組んでおきました」
隣のデスクで、田中翔(26)がモニターから目を離さずに言った。
かつては他人の目を恐れ、暗いサーバルームの隅で息を潜めていたペニー株(低位株)の若者は、今や全社の基幹プロジェクトを統括するチーフ・アーキテクトとして、堂々と陣頭指揮を執っている。
オフィスの中央に設置された巨大なモニターには、朝倉が遺した『TXシステム』と、田中が作った『YOHAKU(余白)』が融合したネットワーク図が、青とオレンジの二つの光を交差させながら穏やかに脈打っている。
タスクをこなすことで得られる、ブロックチェーン上の冷徹でフェアな『論理の報酬(青)』。
そして、互いに助け合い、合意形成のために奔走し、感謝を伝え合うことで発生する『感情のチップ(オレンジ)』。
この二つの血流が完璧な均衡を保つことで、ミライ・イノベーションは過去最高の営業利益を叩き出し、組織としてかつてないほどの強さを手に入れていた。
ピコンッ。
田中のスマートフォンが、軽快な通知音を鳴らした。
『【期末決算】あなたの今期の総合貢献度(タスク達成+YOHAKUスコア)が算出されました。配当ボーナスとして、3,500万 MC(換金可能額)がウォレットに振り込まれました』
それは、かつての評価制度では考えられないほどの、莫大な金額だった。
田中の生み出したアーキテクチャが、会社に、そして社会にもたらした圧倒的な利益。システムはそれを一切の忖度なく、正確な数値として還元してくる。
今や田中は、ミライ・イノベーションにおける絶対的な『トップ銘柄(高配当株)』となっていた。
「……3,500万、か。相変わらず化け物みたいな数字叩き出すな、田中」
佐藤が田中のスマホの画面を覗き込み、呆れたように笑った。
「俺も調整役のチップでそこそこ貰ったが、お前や鈴木にはとても敵わねえよ。まさか、あのオドオドしてたお前が、ここまで会社を牽引するトップ銘柄に化けるとはな」
「佐藤さんが、最初に見つけてくれたんじゃないですか」
田中は、少しだけ悪戯っぽく笑い返した。
「でも、不思議な気分です。昔は、これの何十分の一の評価(株価)を守るために、他人の顔色を窺って、自分の書きたいコードも書けずに怯えていたのに」
田中は視線を上げ、広大なオフィスを見渡した。
社員たちは皆、自らの技術や得意分野を活かし、生き生きと働いている。もう誰も、誰かの才能に寄生しようとはしない。自らの足で立ち、自らの手で価値を生み出し、互いに支え合っている。
波風を立てることを恐れていた若者は、自らの技術でルールを書き換え、独裁者を退け、人間社会には論理と感情の両方が不可欠であるという「気づき」を得た。そのすべての結果が、この光景に詰まっている。
「……田中君。どうかしたのか?」
鈴木が、少しだけ遠い目をしている田中に気づいて声をかけた。
「いえ」
田中は、振り込まれた莫大な配当金の画面を静かに閉じた。
「ただ……少しだけ『憂鬱』だな、と思いまして」
「憂鬱?」
佐藤が首を傾げる。
「ええ。僕たちは今、高い評価と高い報酬を得ています。でも、資本主義という世界に生きている限り、この『評価される』というゲームからは一生降りられないんです」
田中の言葉に、鈴木と佐藤は黙って耳を傾けた。
「明日になれば、また新しい技術が生まれ、新しい社会のバグが見つかる。僕たちはその度に、自分の価値を証明し続けるために、走り続けなきゃいけない。……評価されるってことは、永遠に終わらないマラソンを走るようなものです」
かつて鈴木が抱えていた、トップ銘柄としてのプレッシャー。
その重圧の正体を、トップに立った田中もまた、肌で感じ取っていたのだ。
しかし、かつての鈴木のそれとは、決定的に違うものがあった。
「……でも、不思議と怖くはありません」
田中は、両隣に立つ鈴木と佐藤の顔を交互に見た。
「僕の隣には、完璧なバックエンドを組んでくれる最高のエンジニアと、どんな人間のバグでも直してくれる最強の泥臭い営業マンがいますから。……一人で全部背負う必要なんて、どこにもないんです」
その言葉に、鈴木は優しく微笑み、佐藤は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「当たり前だ。お前がどんな無茶な仕様を組んでも、DAOの連中を説得してハンコ押させるのは全部俺がやってやるよ」
「システムがコケた時は、僕が徹夜でリカバーしてやる。だから田中君は、一番面白いアーキテクチャを描くことだけを考えればいい」
三人の間に、もはや「投資家と金融商品」という歪な手錠は存在しない。
あるのは、互いの欠点を補い合い、共に不完全な世界を前へ進めていくという、対等で強固な「絆」だけだ。
「……いいチームになりましたね」
田中は、心からの笑顔を見せた。
午後6時。
終業のチャイムが鳴っても、オフィスの熱気は冷めやらない。
田中のモニターには、社会インフラを支える、さらに複雑で美しいコードが紡ぎ出されていく。
『高配当銘柄の憂鬱』。
それは、常に変わりゆく世界の中で、立ち止まることを許されない資本主義の呪いかもしれない。
だが、自らの手でコードを書き、自らの足で立つ者にとって、その憂鬱は決して絶望ではない。
それは、明日もまた新しい世界を創り出すことができるという、何よりも重くて、何よりも誇り高い『希望の証』なのだ。
田中翔は、小さく息を吐き出すと、力強くエンターキーを叩きターンした。
画面に緑色の文字が浮かび上がる。
システムは正常。
人間たちの泥臭くも愛おしいバグを内包したまま、彼らの世界は、今日もまた力強くアップデートされていく。
(了)
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