第19話 恩株
九条がCEOの座を追われてから、三日が過ぎた。
ミライ・イノベーションのオフィスから、かつてのピリピリとした殺伐さは消え去っていた。
巨大なモニターに映し出されていた冷酷な株価チャートは取り払われ、穏やかなオレンジ色の光を放つ『YOHAKU』のネットワーク図だけが、静かに脈打っている。
「……信じられないぜ。本当に俺たち平社員が、会社を乗っ取っちまったんだからな」
窓際のデスクで、佐藤健太(36)がコーヒーを片手に深く息を吐き出した。
MBO(経営陣買収)を企てていた九条が失脚した後、会社は正式に新しいガバナンス体制へと移行していた。
「ええ。ですが、ここからが本番ですよ」
田中翔(26)が、複数のウィンドウを開いたモニターから目を離さずに答えた。
「僕たちはもう、他人の才能を売り買いする短期的なマネーゲーム(投機)はしません。これからは全社員が自らの意志でガバナンストークンを保有し、長期的に会社を支えていく。言わば、ブロックチェーンベースの次世代型『持株会』です」
佐藤は深く頷いた。
「ああ。目先の株価の上下に一喜一憂して他人を蹴落とすシステムは、もうご免だ。これからは腰を据えて、地道な価値創造と、長期的な『配当成長』を目指していく。……それが本来の会社のあり方であり、真っ当な資産運用だからな」
「その通りです」
鈴木亮平(33)も、穏やかな笑みを浮かべて会話に加わった。
「僕たちの生み出した価値が、長期的な複利となって全員に還元されていく。天才のトップ銘柄一人に依存するのではなく、社員全員の『余白』で会社を成長させるんです」
三人の顔には、不確かな未来へと向かう経営者としての、確かな覚悟が宿っていた。
***
一方その頃。
誰もいなくなった最上階の旧・社長室で、九条は一人、段ボール箱に私物を詰めていた。
(すべて……終わった)
高級な万年筆を箱に放り込みながら、九条は自嘲気味に唇を歪めた。
絶対的な支配者だったはずの彼は、自分が切り捨てた「人間の感情」によって足元をすくわれ、すべてを失った。
ウォール街のファンドからの買収資金調達は白紙となり、九条個人がMBOの準備のためにレバレッジをかけて投資していた莫大な負債だけが、個人の借金として残された。
自己破産は免れない。すべてを合理性と数字(ROI)で計算してきた男の末路としては、あまりにも無様だった。
「……片付けは進んでいますか、元・社長」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ朝倉零が、静かに部屋の入り口に立っていた。
九条の肩がビクッと跳ねた。
「零……。私を、笑いに来たのか。お前の仕掛けた見えざる株主にまんまと嵌められ、借金まみれになった哀れな父親の無様な姿を」
九条の言葉には、もはやかつての威厳は欠片もなかった。
「笑いに来たわけじゃありませんよ」
朝倉はゆっくりと部屋の中に入り、九条がかつて座っていた革張りの椅子を撫でた。
「……母さんはね。僕が中学生の時に、病気で亡くなりました」
朝倉の唐突な告白に、九条は息を呑み、段ボール箱を持った手を止めた。
「母さんは、あなたに捨てられてからも、ずっとあなたのことを恨んでなんかいなかった。ただ、『あの人は数字の向こう側にある人間の体温が分からない、可哀想な人なのよ』と……悲しそうに笑っていました」
「静子が……」
「僕は、そんな母さんを不幸にしたあなたを許せなかった。だから、あなたが一番信じている『数字』と『市場の論理』を使って、あなたを完全に破壊してやろうと誓ったんです」
朝倉の冷たい目が、九条を射抜いた。
九条は反論の言葉を持たず、ただ力なく俯いた。
「……だが、お前の勝ちだ、零。私は市場の論理で完全に敗北した。私の価値はゼロだ。もう、私には何もない」
九条が絶望に目を閉じた、その瞬間だった。
ピコンッ。
九条のスマートフォンが、短い通知音を鳴らした。
画面に表示されたのは、ミライ・イノベーションの社員用ウォレットアプリからの通知だった。
『朝倉零から、50,000,000 MCのチップを受け取りました』
「な……っ!?」
九条は、スマートフォンの画面と朝倉の顔を交互に見た。
5千万MC。それは日本円にしておよそ5千万円に相当し、九条が抱え込んだ個人的な負債をギリギリ完済し、自己破産を免れることができる絶妙な金額だった。
「れ、零……これは、どういうことだ……!? なぜ、お前が私に……!」
「言ったでしょう。僕の目的は果たされたんです。あなたが『完璧なシステム』だと思っていたものは、人間の泥臭い感情によってハッキングされ、乗っ取られた。あなたのイデオロギーは死んだんです」
朝倉は、呆然とする九条に向かって、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「でも、人間はシステム(機械)じゃない。再起動して、生き直すことができる」
「生き……直す……?」
「そのお金は、システムからの報酬でも、配当でもありません。僕からの、ただの個人的な『YOHAKU』です。……借金を返して、もう一度、数字以外のものを信じる練習をしてください。それが、母さんがあなたに一番望んでいたことだと思うから」
それは、かつて家族を「投資対効果が合わない」と切り捨てた冷酷な男に対する、これ以上ないほど強烈なしっぺ返しだった。
自分を破滅させたのも、そして自分を絶望の淵から救い出したのも、計算式には決して組み込めない『非合理な感情(無償の愛)』だったのだ。
「あ……あぁ……」
九条の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
合理性も、投資対効果もない。ただ「助けたい」という非合理な恩株。
その温かすぎるノイズが、長年凍りついていた九条の心を、完全に溶かして崩した。
九条はその場に泣き崩れ、子供のように嗚咽を漏らしながら、何度も、何度も朝倉に向かって頭を下げた。
「……すまなかった……すまなかった、零……! 静子……!」
朝倉は、泣き崩れる父親の背中をしばらく静かに見下ろしていた。
やがて、彼は満足げに一つ深呼吸をすると、くるりと背を向けた。
「……さようなら、お父さん。あとは『彼ら』が、うまくやってくれますよ」
朝倉零は、社長室を後にした。
彼の足取りは、これまでにないほど軽く、自由だった。
父親への復讐と救済を終えた天才ハッカーは、自らが作り上げたシステムを、それを正しく使いこなせる三人の男たち(田中、鈴木、佐藤)に完全に託し、静かに会社を去っていった。




