第18話 株主
最上階の社長室。
壁一面を覆う巨大な監視モニターには、自律分散型組織(DAO)として完璧に統制されていたはずの『TXシステム Ver 3.0』のネットワーク図が映し出されている。
本来なら、タスクと報酬という絶対的な「論理の血流」を示す冷たいブルーの光だけで満たされているはずのその画面は、今や異様な光景を呈していた。
田中翔が放った非公式アプリ『YOHAKU(余白)』。
社員同士が自発的に助け合い、無償の感謝を送り合うそのトランザクションは、温かいオレンジ色の光となって、青いネットワークを爆発的な勢いで浸食し、塗り替えていたのだ。
「……チッ。忌々しいノイズどもめ。私の完璧な計画に、泥を塗りおって」
九条は、背後でコンソールを見つめている若き天才エンジニアに向かって、低い声で命じた。
「零。何を呆然としている。今すぐメインサーバーのファイアウォールを書き換え、この非公式アプリの通信ポートを物理的に遮断しろ」
しかし、朝倉零(26)はキーボードに触れようともせず、ただ静かにモニターのオレンジ色の光を見つめていた。その横顔には、いつもの人を食ったような薄笑いはない。
「聞こえないのか、零。このTXシステムは、単なる社内の人事評価ツールではない。既存のうるさい株主どもを追い出し、この会社を完全に私の個人所有にするための『MBO(経営陣買収)』の仕掛けなのだぞ!」
九条の口から、どす黒い真の目的が吐き出された。
才能の民主化などという美しい言葉は、すべて建前だった。
「私は冷徹な合理主義だけでこのミライ・イノベーションのCEOにまで上り詰めた。だが、どれだけ私が過去最高の利益を出そうと、市場の株主どもは常に私に首輪を繋ぎ、短期的な配当を要求してくる。……だから私は、このDAOのシステムを作らせた。社員を『感情のない完璧な歯車』としてデータ化し、その圧倒的で予測可能な労働価値を担保に、ウォール街の巨大ファンドから巨額の買収資金を引っ張る。そして市場から自社株をすべて買い占め、私が唯一絶対のオーナーになるはずだったのだ!」
社員たちは、九条が会社を強奪するための「担保」であり「計算資源」に過ぎなかった。
「なのに、こんな『感謝』などという価格のつけられないノイズが混ざれば、ファンドからの評価モデル(バリュエーション)が崩壊してしまう! 人間がただの機械(数字)であることを証明しなければ、私の計画が水泡に帰すのだ!」
九条は、動こうとしない朝倉の肩を背後から力強く掴んだ。
「零。私が、お前の素性に気づいていないとでも思っていたか? お前が、15年前に私が捨てた静子との間に生まれた、私の息子だということを」
朝倉の肩が、ピクリと小さく揺れた。
「採用面接の時点で、私はすべて知っていた。そして、お前をこの特等席に引き上げた。……お前には、私と同じ『数字と論理だけを信じる天才の血』が流れているからだ。不合理な感情に溺れて心を病み、私を縛り付けようとしたあの母親とは違う。さあ、私と共にこの完璧なシステムを完成させるんだ!」
それは、冷酷な父親からの、身勝手極まりない「承認」だった。
九条は、息子が自分に認められたくて、このシステムを作り上げたのだと信じて疑わなかった。
しかし——。
「……ははっ。あはははは!」
朝倉は九条の手を振り払い、腹の底から可笑しそうに、狂ったような笑い声を上げた。
「本当に、傲慢な人だ」
振り返った朝倉の瞳には、絶対零度の冷酷さと、長年どろどろに煮詰められてきた真っ黒な憎悪が渦巻いていた。
「あなたが僕を息子だと知っていて、利用しようとしていることなんて、とっくに気づいていましたよ。『何も知らない息子が、父親とも知らずに完璧なシステムを作ってくれている』と、腹の底で僕を見下して、悦に浸っていたんでしょう?」
朝倉は、嘲るように九条を指差した。
「あなたは金融のプロフェッショナルだ。上場企業の世界なら、誰がどれだけの株を持っているか、5%ルール(大量保有報告書)でガラス張りにされているから、すべてをコントロールできると思い込んでいる。……でもね、お父さん。ここは現実の株式市場じゃない。僕がコードを書いた『未上場の閉鎖環境(プライベートDAO)』なんですよ」
朝倉の言葉に、九条は怪訝な顔をした。
「それがどうした。このDAOシステムのガバナンストークン(議決権)の過半数は、CEOである私のメインウォレットと、私に賛同する役員たちの口座に割り当てられている。システム上の絶対的な支配者は私だ」
「ええ、あなたの『管理画面』の上ではね」
朝倉は、ゆっくりと自分のノートPCを九条の方へ向けた。
そこに表示されていたのは、九条が見たこともない、システム深層部のトランザクション(取引)のログだった。
「上場していない企業や、こうした閉鎖環境のDAOであれば、誰が株を持っているかを国に報告する義務はありません。だから僕は、システムが稼働する前に、ダミー会社に相当する『数万個の匿名ウォレット』をシステム上に密かに生成し、そこに莫大なガバナンストークンをプレマイン(事前発行)して隠しておいたんです」
「な……なんだと!?」
「あなたは画面上の数字だけを見て、自分が絶対的な支配者だと思い込んでいた。……でも実は、システムを構築した僕という『裏のオーナー(真の大株主)』が別に存在していたんですよ」
九条の顔から、さっと血の気が引いた。
「き、貴様……私を騙していたのか! 自分の父親を!」
「父親? あなたは家族すらも『投資対効果が合わない不良債権』として損切りした人間だ。……だから僕は、あなたが最も得意とする『資本の論理』と『見えざる株主の恐怖』で、あなたを破滅させることにしたんです」
その時、社長室の重厚な扉が乱暴に開かれた。
「……そこまでです、九条社長」
息を切らした田中翔、鈴木亮平、そして佐藤健太の三人が、九条の前に立ちはだかった。
「貴様らごときが……! 私はCEOだぞ! セキュリティを呼べ!」
九条が激昂し、デスクのインターホンに手を伸ばした。
「CEO? ……九条社長。あなたは今、自分が直面している『市場の現実』が見えていないようですね」
佐藤が、手元のタブレットを滑らせるようにして、九条のデスクに放り投げた。
そこに表示されていたのは、ミライ・イノベーションの『臨時株主総会・緊急決議』の可決を知らせる、システムからの正式な通知だった。
「なっ……! バカな、私の持ち株比率は……!」
「過半数割れしていますよ」
田中が、静かに告げた。
「僕たちは、全社員に向けて、あなたを解任するための『プロキシ・ファイト(委任状争奪戦)』を仕掛けました」
「平社員の議決権をすべてかき集めても、私の支配権には届かないはずだ!」
「だから言ったでしょう」
朝倉が、冷酷な声で種明かしをした。
「僕がダミー口座に隠し持っていた『真の過半数の議決権』を、すべて田中さんの『YOHAKU』のネットワークに流し込んだんです。……あなたが最も軽蔑した、損得抜きで他人を助け、感謝のチップを送り合ってきた社員たち。その『温かい感情(信用スコア)』を多く集めた人間たちに、裏のオーナーである僕が、強力な議決権を委任したんですよ」
九条はよろめき、革張りの椅子に力なく崩れ落ちた。
「社員たちは皆、あなたの『冷酷な数字の支配』にNOを突きつけました。損得抜きで助け合ってきた社員たちの手によって、たった今、あなたをCEOから解任する動議に『賛成』の票が投じられたんです」
田中が、九条の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「あなたを倒したのは、あなたがシステムに仕組んだ冷たいルールではありません。あなたが無視し、切り捨ててきた『人間たちの泥臭い感情』が、あなたという会社を敵対的買収したんです」
「あ……あぁ……私の、私の会社が……私の、計画が……!」
かつて絶対的な権力を誇り、社員を金融商品として担保にしようとしていた冷酷な経営者は、自らが盲信した「株式市場のルール(資本の論理)」の盲点を突かれ、完全にその座を追われた。
「市場は常に正しい。そう言ったのはあなたでしたね」
佐藤が、九条を見下ろして冷たく言い捨てた。
「あんたの価値はゼロだ。……上場廃止ですよ、九条社長」
窓の外では、東京の街に夕闇が迫っていた。
しかし、社長室の巨大なモニターの中だけは、社員たちの感謝と絆を示す無数のオレンジ色の光が、まるで新しい生命の誕生を祝福するかのように、力強く、そして温かく瞬き続けていた。




