第17話 余白
「……完璧だ。ブロックチェーン上に刻まれたスマートコントラクト(自動契約)のコードは、完全に分散化されていて、中央サーバーが存在しない。これじゃあ、社長の九条だろうがシステムの創造主である朝倉だろうが、後からルールを書き換えることは物理的に不可能だ」
薄暗い開発部のフロアで、鈴木亮平(32)はモニターに映るTXシステム Ver 3.0のソースコードを見つめながら、重い感嘆の息を漏らした。
DAO(自律分散型組織)として再構築されたミライ・イノベーションのシステムは、朝倉零という天才が作り上げた「絶対にハッキングできない堅牢な檻」だった。
報酬が支払われるのは、システムに登録された『タスク』を消化した時のみ。それ以外の行動はすべて「無価値」と切り捨てられる。社員たちは今や、AIの指示通りに動くだけの歯車と化していた。
「既存のシステムの中からハッキングして、ルールを壊すことは不可能です」
隣のデスクで、田中翔(25)も静かに同意した。
「だったら、どうするんだ? このままじゃ、会社はただの冷たい自動販売機だ。誰も助け合わず、新しいアイデアも生まれないまま、ゆっくりと窒息していくぞ」
鈴木の焦燥を帯びた問いに、田中はキーボードから手を離し、コーヒーの入ったマグカップを手に取った。
「システムが完璧なら、その外側に『余白』を作ればいいんです」
「余白……?」
「ええ。TX 3.0のアルゴリズムは、『タスクに対する報酬』は完璧に計算できますが、人間が自発的に抱く『感謝』や『恩義』といった非合理な感情は計算式に組み込めません。だから……」
田中はモニターの画面を切り替えた。
そこに表示されたのは、かつて田中が営業部の片隅で、誰にも評価されずに一人で組んでいた頃の懐かしい開発環境――『Google Apps Script(GAS)』のエディタ画面だった。
「僕たちの原点に戻りましょう。現場の『今すぐ何とかしてほしい』を最速で解決するための、泥臭くて軽いプロトタイプ。……公式のTXシステムとは全く別の、非公式の裏アプリ(シャドーIT)を作ります」
田中の指が、軽やかにキーボードの上を舞い始めた。
フロントエンドは、全社員が日常的に使っているGoogle Workspace環境にGASでサクッと構築する。そこから裏側にあるAWSのAPI Gatewayを通し、Lambda関数で軽量なトランザクションを処理する。
「作る機能はたった一つ。自分が所有しているミライ・コイン(MC)を、システムを通さずに、同僚へ『チップ(投げ銭)』として自由に送金できる機能です」
「……ピア・ツー・ピア(個人間)の直接送金か。でも田中君、タスク以外の行動が『無価値』とされている今の冷え切った社内で、自分の身銭を切ってまで他人にチップを払う奴なんているのか?」
鈴木の懸念はもっともだった。今の社員たちは、自分の利益を1 MCでも最大化することにしか興味がない。
「いますよ」
田中は、誰も座っていない営業部の佐藤のデスクに視線を向けた。
「人間は、機械じゃない。それを証明してくれている人が、今、外で泥水すすって戦っていますから」
***
同じ頃。
都内の老舗製造メーカーの応接室で、佐藤健太(35)は、頑固で知られる先方のシステム担当部長を前に、深く頭を下げていた。
「……ですから佐藤さん。うちは昔からのオンプレミス(自社運用)でやってきたんです。いくら御社のクラウド連携が便利だからといって、大事な顧客データを外のサーバーに出すなんて、セキュリティ的に絶対にハンコは押せませんよ」
「おっしゃる通りです。部長のそのご懸念は、痛いほど分かります」
佐藤は顔を上げ、嘘偽りのない、まっすぐな目で部長を見つめ返した。
「実は私自身、つい先日まで『システムがすべてを解決してくれる』と信じ込んで、痛い目を見たばかりなんです。効率化だ、アルゴリズムだと偉そうに語って、他人の心を踏みにじって……結果、一番大切なものを失いかけました」
佐藤の言葉には、用意された営業トークにはない、生々しい「人間の反省」と「熱」がこもっていた。
「どんなに完璧なシステムでも、最後はそれを動かす『人間』が信用できなければ、ただの冷たい箱です。……クラウド化への不安は、うちの開発チームの二人の天才が、絶対に解決します。彼らは、損得抜きで会社を救ってくれた、本物のエンジニアです。そして、何かトラブルがあれば、私が真っ先に飛んできて土下座します。だから……どうか、私という『人間』を信じて、この連携テストの同意書にハンコを頂けないでしょうか!」
佐藤は、額がテーブルにつくほどの勢いで、再び深々と頭を下げた。
応接室に、長い沈黙が流れた。
やがて、「……ふぅ」という大きなため息とともに、部長が万年筆を手に取る音がした。
「まったく……今どきのIT企業の営業マンが、そんな昭和みたいな泥臭い営業をしてくるとは思いませんでしたよ」
部長は苦笑しながら、同意書にサインと社印を押し、佐藤に差し出した。
「システムは信用しません。ですが、佐藤さん。あなたのその『熱意』と、背後にいるエンジニアへの『信頼』に免じて、一度だけテストを許可しましょう」
「……! ありがとうございます!!」
佐藤は同意書を震える手で受け取り、ビルを出た瞬間に空に向かってガッツポーズをした。
すぐさまスマートフォンを取り出し、同意書の写真をTXアプリにアップロードする。
ピコンッ。
『【E社・クラウド移行同意書の獲得】タスク完了。佐藤健太のウォレットに 80,000 MC が送金されました』
その冷たい機械的な通知を見た後、佐藤は、スマートフォンの社内チャットに届いていた「もう一つのリンク」を開いた。田中から送られてきた、非公式アプリ『YOHAKU(余白)』のURLだ。
佐藤は、たった今手に入れた自分の報酬 80,000 MCの中から、半分の 40,000 MCを分割し、宛先を「田中翔」と「鈴木亮平」に設定した。
メッセージ欄に、一言だけ入力する。
『天才たちへ。あとは頼んだ。』
送信ボタン(SEND)をタップした瞬間、佐藤の胸の奥に、かつて投資家気取りで他人の株を買い占めていた時には決して味わえなかった、温かくて誇らしい感情が広がっていった。
***
「……届きましたよ」
開発部のフロアで、田中のスマートフォンの画面に『佐藤健太から 20,000 MC のチップを受け取りました』というポップアップが表示された。
全く同じ通知が、隣の鈴木のスマホにも表示されている。
システムからの「報酬」ではない。
一人の人間からの、純粋な「感謝」と「信頼」の証。
「……本当に、身銭を切って送ってきやがった」
鈴木が、少しだけ目を潤ませながら笑った。
「ええ。これが、システムには計算できない『余白』です」
田中はキーボードを叩き、この『YOHAKU』アプリのURLを、ミライ・イノベーションの全社員に向けて一斉送信した。
「さあ、反撃の始まりです」
最初の一時間は、誰もその非公式アプリを使わなかった。
しかし、午後3時。
総務部のフロアで、再び新人の女性が重い資料の束を落とし、泣きそうになりながら拾い集めていた時のことだった。
通りかかった中堅の女性社員が、無言でしゃがみ込み、資料を拾うのを手伝った。
「あ、ありがとうございます……!」
「いいのよ。気にしないで」
タスクに登録されていない、報酬ゼロの行動。
だが数分後、中堅女性社員のスマホが、ピコンと小さく鳴った。
『新人(総務部)から、500 MC のチップとメッセージ【本当に助かりました(涙)】を受け取りました』
そのささやかな通知を見た中堅社員は、ふっと表情を和らげた。
そして彼女もまた、以前から仕事を手伝ってくれていた他部署の若手宛に、その500 MCに自分の資金を少し上乗せして『チップ』を送信したのだ。
それは、完璧に凍りついていた湖の水面に落ちた、一滴の温かい水滴だった。
『資料のダブルチェックありがとう!』
『昨日のトラブル対応、マジで助かりました』
『いつも美味しいコーヒー淹れてくれて感謝!』
ピア・ツー・ピアの投げ銭の連鎖は、ブロックチェーンの冷たいスマートコントラクトを飛び越え、血の通ったネットワークとして社内を爆発的に伝播し始めた。
効率化という名のもとに切り捨てられていた「善意」と「感謝」が、MCという形を伴って、オフィス中に温かい血流のように巡り始めたのだ。
「……これは、なんだ?」
最上階の社長室で、監視モニターを眺めていた朝倉零が、初めて怪訝な声を上げた。
完璧な自律分散型組織(DAO)として稼働しているはずのTX 3.0のネットワーク図。その上に、システムが一切感知していない『謎のトランザクション(取引)』が、アメーバのように無数に増殖し、正規のシステムを覆い尽くそうとしていたからだ。
「アルゴリズムの計算外……イレギュラーな値だと……!?」
人間の非合理性を完全に排除したはずの天才の顔に、初めて「焦り」の色が浮かんだ。
計算できない人間の『温もり』という名のバグが、絶対的なシステムの中枢に、静かに浸食を始めていた。




