第2話 劇薬
数週間後。
ミライ・イノベーションの役員会議室には、重苦しい沈黙が漂っていた。
「……社長。本気で仰っているんですか」
人事部長の篠原(55)は、手元の分厚い企画書『Project TX』と、プロジェクターに映し出されたデモ画面を交互に見比べながら、引きつった声を上げた。
長年、自社の相対評価制度を守り抜いてきた篠原にとって、それは「人事部の存在意義」を根本から否定するテロ宣告に等しかった。
「全社員を銘柄化し、同僚同士で投資させる? 冬のボーナスを株価で決める? ……こんなギャンブルのようなシステム、マネージャー層が絶対に納得しません!」
顔を真っ赤にして反論する篠原に対し、九条は静かにコーヒーをすすった。
「人事評価というのは、上司が部下を適切に管理し、秩序を保つための神聖なツールなんです!」
「その『神聖なツール』とやらで、先月また優秀なインフラエンジニアが辞めたな」
九条の冷ややかな一言に、篠原が言葉を詰まらせる。
「逆に、マニュアル化を拒んで知識を独占している中崎には、お前たちは今年も『A』評価をつけようとしている。……篠原、秩序とは現状維持のことじゃない」
「し、しかし! 予算はどうするんですか! 株価が青天井に上がって、全員が莫大なボーナスを要求してきたら会社は即座に破綻しますよ!」
「その心配はありません。原資は完全にコントロールされていますから」
篠原の言葉を遮ったのは、九条の隣に座る若い男だった。
ヨレヨレのジャケットを羽織った入社3年目のエンジニア、朝倉零だ。
一介の平社員が役員会議に同席していること自体が異常だったが、九条は彼を「本プロジェクトのシステム統括責任者」として強引に座らせていた。
「き、君は開発部の……朝倉くんだったか。システム開発の末端が、全社の人事制度に口を出すんじゃない!」
「末端だからこそ、上の『歪んだ目』がよく見えるんですよ」
朝倉は怯むどころか、薄く笑いながら手元のノートPCを操作した。
スクリーンに、流動性プールと呼ばれる概念図と、複雑な数式が展開される。
「全員の株価が青天井で上がることはありません。そもそもこのTX市場には、証券取引所のような『板』は存在しない。代わりに僕が組んだAMM(自動マーケットメーカー)が、すべての取引の相手になります」
「エイ、エム……?」
篠原が怪訝な顔をする。朝倉は淡々と説明を続けた。
「アルゴリズムによる無人の取引所です。会社はあらかじめ、全社員の初期株と、ボーナス原資である『ミライ・コイン』をシステム内のプールに沈めておきます。社員が有望な同僚の株を買うとき、彼らは自分の資金をプールに入れ、代わりに株を引き出す。プール内の特定の株が減れば、アルゴリズムが自動的にその株の価格を釣り上げます」
「自動で……価格が決まる?」
「ええ。逆に、誰からも買われない株は底値でプールにダブつき続ける。誰かが売りに出すのを待つ必要はなく、システムという『巨大な自動販売機』を相手に全員が売買するんです。そして全社員の株価の総額は、会社の『営業利益』と厳密に連動するようロックをかけてある」
朝倉はそこで言葉を区切り、篠原を見据えた。
「つまり、会社全体が儲からなければ、どんなに社内で人気を集めて株価を上げても配当はゼロです。社員が自分の利益を最大化するには、社内政治で媚びを売るのではなく、本気で会社の業績を上げるしかない仕組みになっています。人事部がこれまでエクセルで調整していた予算配分を、アルゴリズムが1ミリの狂いもなく自動で行うんです」
朝倉の立て板に水のような論理的な説明に、篠原はぐうの音も出ない。
しかし、老獪な人事部長は最後の抵抗を試みた。
「……マネージャー層の反発はどうする? 特に50代のシニア層だ」
篠原はテーブルに両手をつき、九条を睨みつけた。
「彼らは自分の部下を評価する『権力』を奪われ、挙げ句の果てに若い連中の株価ゲームに巻き込まれるんだぞ。一斉にストライキが起きる!」
それは、従来の組織改革で必ず壁となる「既得権益層の抵抗」だった。
しかし、九条は待っていましたとばかりに口角を上げた。
「篠原、お前は企画書の『退職時のエグジット・ルール』の項目を読んでいないな」
「エグジット……?」
「退職時、保有している株と含み益はすべて強制決済され、新しい『退職金』として上乗せされる仕組みだ」
九条がそう告げると、篠原は目を丸くした。
「今まで、定年退職を控えたシニア層は『どうせ辞めるから』と若手の育成を放棄し、無難に逃げ切ることばかり考えていた。だが、このTXシステムが導入されればどうなる?」
九条は立ち上がり、篠原を見下ろした。
「彼らは自分の『退職金』を少しでも吊り上げるために、有望な若手を血眼になって探し出すはずだ。そして自分の持つコネやノウハウをすべて注ぎ込み、全力で育て上げようとする」
「退職金を……自らの手で増やせる……?」
「そうだ。彼らから人事権という名の権力を奪う代わりに、圧倒的な経済的インセンティブを与える。世代間のノウハウ継承すら、このシステムが自動で解決してくれるんだ。……これでもまだ、シニア層が反対すると思うか?」
九条の言葉に、篠原の反論は完全に途絶えた。
人事部が長年抱え、解決できなかった「評価への不満」「属人化」「シニア層のモチベーション低下」というあらゆる病巣。
それが、この常軌を逸したシステムによって、すべて論理的に、かつ鮮やかに解決されようとしている。
「……社長。これは……劇薬です。会社そのものが、まったく別の生き物に変わってしまいますよ」
篠原は額に汗をにじませながら、呆然と呟いた。
「ええ。最高の生き物にね」
朝倉がノートPCを閉じながら、誇らしげに言った。
九条は会議室の窓から広がる、広大なオフィスフロアを見下ろした。
パーテーションで区切られ、無表情でキーボードを叩く社員たち。彼らの才能は今、古い評価制度という檻の中に閉じ込められている。
「人事部の権限は本日をもって縮小し、TXの監視委員会へと移行する。システムは明日の朝9時に全社ローンチだ」
九条の決定に、もはや異を唱える者は誰もいなかった。
社長と末端のエンジニアという、いびつな共犯関係が作り上げたユートピアの設計図が、ついに承認された瞬間だった。
翌朝。
午前9時00分。
ミライ・イノベーションで働く全社員1,500名のスマートフォンが、一斉に振動した。
『タレント・エクスチェンジ(TX)へようこそ。あなたの初期株価と、投資資金(10万ミライ・コイン)が付与されました』
誰もが半信半疑のまま、その真新しいアプリを開く。
そして彼らは気づくことになる。
これまでの「上司の顔色を伺う日々」が完全に終わりを告げ、自分の才能と、他人の才能が「金」に直結する、未体験の熱狂のステージが幕を開けたことに。




