第1話 幕開
深夜2時。
ミライ・イノベーション本社、最上階の社長室。
広い室内の明かりは落とされ、黒檀のデスクに置かれた数枚のモニターだけが、九条雅之(52)の険しい横顔を青白く照らしていた。
「……また、一人消えましたよ」
背後の本革ソファから、乾いた声がした。
開発部の末端に所属するエンジニア、朝倉零(26)だ。ヨレヨレのパーカーのフードを深く被った彼は、膝の上に置いたノートPCから目を離さず、無機質な打鍵音を響かせている。
「今度は誰だ」
「インフラ班の要だったベテランです。彼が深夜にメンテナンスを回してくれていたおかげで、この会社のサーバーは一度も止まったことがなかった」
朝倉はキーボードを叩く手を止めず、吐き捨てるように言った。
「でも、今期の彼の評価は最低の『D』。理由は『目に見える新規実績がないから』。……笑えませんか? 完璧にシステムを守り切ったことが、無能な上司の目には『何もしていない』と映ったんです」
九条は深くため息をつき、手元のタブレットに目をやった。
そこには、数ヶ月前に会社を去った天才プログラマー、結城の退職記録が残っている。
評価の枠に収まらない異端の才能だった彼は、直属のマネージャーから「協調性がない」と低評価を下され、静かにライバル社へと去っていった。
「その一方で、不当に高い評価を得ている連中もいます」
朝倉が忌々しそうに続けた。
「業務管理部の中崎ですよ。彼は部署の売上集計システムを独自のマクロで構築していますが、その中身を完全にブラックボックス化している。彼が休めば部署全体が機能停止するほどの『属人化』です」
九条は眉間を揉んだ。その報告は社長の耳にも入っていた。
「マニュアル化するように何度指示しても、のらりくらりと逃げているそうだな」
「ええ。自分の立場を守るためです。ノウハウを共有して誰でもできる仕事になれば、自分の価値が下がると思い込んでいる。そして呆れたことに、マネージャーは『中崎さんがいないと回らない』という理由だけで、彼に最高評価の『A』を与え続けている」
知識を独占し、後進の育成を阻み、組織の首を絞めている人間が一番偉いなんて、この会社は狂ってますよ。
朝倉の言葉が、深夜のオフィスに冷たく響いた。
誰も見ていないところで会社を支える人間が報われず、自己保身のために仕事を抱え込む人間が評価される。
九条はモニターに映る、自分自身の個人資産のポートフォリオを眺めた。そこには、彼が長年信奉してきた「市場」の数字が並んでいる。
「零、見てみろ。この画面の中では、嘘は通用しない」
九条は指先でモニターをなぞった。
「価値ある事業を行い、社会にノウハウを還元する企業には資金が集まる。市場は冷酷だが、同時にこの世界で唯一、透明でフェアな場所だ」
九条は、ふと独り言のように呟いた。
「……なぜ、会社の外にはこれほど完璧な『評価システム』があるのに、会社の中には、人間の好き嫌いや自己保身に塗れたドロドロのブラックボックスしかないんだ? 結城のような才能や、縁の下の力持ちを、なぜ株のように直接買い支えることができなかった?」
朝倉の手が、一瞬止まった。
彼は初めて顔を上げ、九条の背中を見つめた。二人の思考回路が、見えない糸で繋がった瞬間だった。
「……面白いですね。もし、社員一人ひとりが『銘柄』になったら、どうなると思います?」
朝倉の言葉に、九条の心臓がドクリと跳ねた。
「銘柄……?」
「ええ。社員全員が『上場』するんです。マネージャー一人の評価なんて関係ない。彼らの仕事の真の価値を理解している周囲の人間が、自分の身銭を切って彼らの株を買う。才能がある人間には資金が集中し、株価が上がる」
九条が椅子を勢いよく回転させ、朝倉に向き直った。
「投資した側にもメリットが必要だ。……配当はどうだ? 投資先の社員が成果を出せば、その利益の一部が株主に還元される。そうすれば、誰もが競って『将来性のある若手』を探し、必死に育てるようになる」
「完璧です!」
朝倉の目が、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く光った。
「それなら中崎のような『属人化』も解決します。自分のスキルを抱え込んで部署の足を引っ張る人間は、投資家(同僚)から見放されて株価が暴落する。逆に、自分のノウハウを他人に教えて組織全体の生産性を上げた方が、市場からの評価が高まって株価が上がる。……『教えること』が、自分の利益に直結するんです!」
二人の会話は加速していく。
深夜の静寂を切り裂くように、アイデアが火花を散らす。まるで長年連れ添った相棒のように、あるいは血の繋がった家族のように、二人の論理は完璧に噛み合っていた。
「だが、仕事中にデイトレードに耽る奴が出ては本末転倒だ。……売買できるのは、四半期に一度。人事評価が決まる直後の1週間だけにロックしよう」
「ガバナンスですね。取引は僕が組む自動マーケットメーカー(AMM)に任せます。誰かが売りに出すのを待つような『板取引』は不要。アルゴリズムが自動で適正価格を弾き出します。
それから、空売り(ショート)は意図的に排除します。他人の足を引っ張って儲けるような悪意は、このユートピアには不要だ。あくまで『才能への応援と投資』に限定します」
「報酬への直結も不可欠だ。……冬のボーナスを、その時点の『自分自身の株価』で決定させる。上司の判子一つで決まる理不尽なボーナスは、もう廃止だ」
「最高に刺激的だ。……退職する時はどうします? 持ち逃げはシステムを壊しますよ」
「強制決済だ。辞めた瞬間の時価で現金化させ、それ以降の未来の配当権利はすべて失効させる」
九条はそこで、さらに大きな可能性に気づいたように目を細めた。
「だが、これは単なるペナルティじゃない。強制決済で得られた莫大な含み益は、そのまま新しい『退職金』として支給されるんだ。……これが何を意味するか分かるか?」
朝倉は少し考え込み、やがてハッとしたように息を呑んだ。
「……なるほど。定年を控えた、年配のマネージャー層への強烈なインセンティブになる」
「その通りだ」
九条は力強く頷いた。
「今までなら『どうせあと数年で辞めるから』と若手の育成を放棄し、逃げ切りを図っていたシニア層が、自分の退職金を最大化するために血眼になって有能な若手を発掘するようになる。そして自分の持つノウハウをすべて注ぎ込み、全力で彼らを育て上げる。世代間のノウハウ継承すらも、このシステムが自動化してくれるんだ」
九条の目には、冷徹な経営者ではなく、純粋な理想を追う少年のように温かな光が宿っていた。
「これまで、結城のように優秀な人間ほど、理不尽に絶望して去っていった。だが、この仕組みがあれば違う。自分が手塩にかけて育てた後輩や、作り上げたチームの成長が、長期的な『配当』や莫大な『退職金』という形で自分に還元され続ける」
優秀な人間が自ら「この会社で、仲間と共に豊かになりたい」と心から思えるようになる。これは才能と会社を強く結びつける、希望の絆になるんだ。
九条と朝倉は、ホワイトボードに埋め尽くされたルールの断片を見つめた。
それは、従来の「人事」という概念を根底から破壊し、資本主義の論理を組織の深部にまで流し込む、劇薬のようなシステムだった。
「……零、お前ならこれを作れるか?」
「僕を誰だと思ってるんですか。……世界で一番フェアなユートピアを、あなたにプレゼントしますよ」
朝倉は不敵に笑い、再びキーボードに向かった。
九条は、かつて救えなかった才能たちの顔を思い浮かべた。
(もう二度と、不当な評価に泣く者は出さない。自己保身の蔓延るこの会社を、全員が互いを高め合う最高のチームに変えてみせる)
二人は、自分たちが生み出したロジックの完璧さに酔いしれていた。
自分たちが創り上げたのは、才能を救い、誰もが正当に報われるための「理想の器」だ。
――こうして、純粋な善意と希望で磨き上げられた完璧なシステムは産声を上げた。
理不尽な評価に縛られていた社員たちが己の才能を開花させ、互いを高め合いながら、圧倒的な熱量で会社を成長させていく。
それは、長年停滞していた日本のビジネス社会そのものを覆す、痛快で輝かしい大逆転劇の幕開けとなるはずだった。
『Project TX:タレント・エクスチェンジ』
「さあ、始めようか。才能の民主化を」
九条の力強い声が、誰もいないオフィスに響き渡った。
窓の外には、新しい時代の夜明けを告げるような、まばゆい朝日が昇り始めていた。




