第15話 凡人
ミライ・イノベーションのオフィスから、42個のデスクが物理的に撤去された。
ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)と、それに続く社長・九条の「大粛清」から一週間。
インサイダー取引や業務妨害に手を染めていた人事部長の篠原や、営業第1課のベテラン社員たちは、文字通り会社から姿を消した。彼らが座っていた場所には、ぽっかりと不自然な空間が空き、冷たい空調の風だけが通り抜けている。
生き残った社員たちも、かつてのような無駄口を叩かなくなった。
TXの市場は「一時凍結」のままだが、九条の冷酷なリストラを目の当たりにした彼らは、下らない社内政治やアピール合戦を完全にやめ、ひたすらに目の前の実務に縋り付くようになっていた。
佐藤健太(35)は、自席の安っぽいオフィスチェアで、ただ一人、モニターの白い画面を見つめていた。
(俺には……何もない)
佐藤は、強烈な虚無感に苛まれていた。
彼には、篠原たちのような「システムを悪用してまで私腹を肥やす」ほどの度胸も悪意もなかったため、粛清の対象からは外れ、解雇は免れた。
しかし、田中翔や鈴木亮平のように「自らの技術で数千万円の価値を生み出す」ような才能もない。
彼はただの、どこにでもいる中堅の営業マンだ。
休日は自作のエクセルマクロで家計簿を管理し、インデックスファンドにコツコツと小銭を積み立て、他人の才能(バリュー株)を底値で買い叩いて「プロデューサー」を気取っていただけの、空っぽの凡人。
投資家としてのメッキが剥がれた今、彼の手元に残っているのは「平均以下の営業成績」と「35歳という年齢」だけだった。
「田中君、ここのAPIの非同期処理だけど、Lambdaのコールドスタート対策としてプロビジョニングされた同時実行を設定しておいた方がいいかもしれない」
「なるほど。コストは微増しますが、レイテンシの安定性を考えればペイしますね。鈴木さん、そこのTerraformのコード、マージしておいてもらえますか」
フロアの向こう側で、田中翔(25)と鈴木亮平(32)が、ホワイトボードに複雑なアーキテクチャ図を描きながら、高度な技術的議論を交わしている。
二人は今、社長の九条から直々に特命を受け、全社の基幹システムを完全にAWSのクラウド環境へと移行する巨大プロジェクトの共同リーダーに任命されていた。
あのどん底の夜を越えた鈴木は、重圧から解放され、憑き物が落ちたような清々しい顔で純粋にコードを楽しんでいる。田中もまた、もはや誰の顔色を窺うこともなく、堂々とプロジェクトを牽引していた。
(あいつらは、本物の『価値』だ。……俺は、あいつらに投資し、操っていたつもりだったが、本当はあいつらの光に群がる羽虫でしかなかったんだな)
佐藤は自嘲気味に笑い、重い腰を上げた。
このまま座っていても、自分には何の価値も生まれない。会社が真の実力主義に移行した今、価値を生まない人間は、いずれ静かに肩を叩かれるだけだ。
佐藤は、かつて自分が「所有物」として見下していた田中のデスクへと歩み寄った。
「……田中」
声をかけられ、田中が振り返る。
その瞳には、かつて佐藤の威圧に怯えていた頃の弱々しさは微塵もない。かといって、自分を縛り付けていた佐藤を憎むような険悪な色もなかった。
ただ、システムのエラーを検証するような、極めてフラットで合理的な眼差しがそこにあった。
「どうしました、佐藤さん」
「俺に……何か手伝えることはないか」
佐藤は、プライドも何もかもを捨てて頭を下げた。
「俺はコードは書けない。AWSのアーキテクチャも分からない。投資家ぶって偉そうな口を叩いてきたけど、結局、俺には他人に乗っかることしかできなかった。……でも、このまま会社のお荷物になるのは嫌なんだ。雑用でも、デバッグのテストデータ入力でも何でもやる。俺を使ってくれないか」
35歳のプライドを捨てた懇願。
鈴木は少し驚いたような顔をして佐藤を見たが、田中は表情を崩さなかった。
田中は手元のタブレットを操作し、分厚い紙のファイルの束をドン、と佐藤の目の前に置いた。
「テストデータ入力なんて、スクリプトを組めば3秒で終わります。佐藤さんにやってもらいたいのは、そんな機械にできる仕事じゃありません」
「……これは?」
佐藤がファイルの束をめくると、そこには見覚えのある、古くからの取引先企業の名前がずらりと並んでいた。
「現在、僕たちが進めている基幹システムのクラウド移行において、最大の『バグ』はシステム内部にはありません。……外部(人間)です」
田中は淡々と説明を始めた。
「新しいシステムに移行するためには、これらの旧態依然としたレガシー企業の担当者たちに、データ連携の仕様変更を納得してもらい、契約書にハンコをもらう必要があります。しかし、彼らは『クラウドはセキュリティが不安だ』『今までのやり方を変えたくない』と感情的に反発し、論理的な技術説明やメールを一切受け付けようとしません」
田中は、佐藤の目を真っ直ぐに見据えた。
「僕や鈴木さんのようなエンジニアは、論理の通じない人間の感情を処理するのが決定的に苦手です。……佐藤さん。泥臭く頭を下げて、彼らの懐に飛び込み、酒を飲み交わし、何日もかけて彼らの『感情的なバグ』を取り除いて、この同意書にハンコをもらってきてくれませんか」
それは、システム化の最先端を行くプロジェクトにおいて、最も非効率で、最も人間臭く、そして最も『ストレスの溜まる』泥仕事だった。
かつて「投資家」を気取っていた佐藤なら、「そんな非効率な営業活動はコスパが悪い」と鼻で笑っていただろう。
しかし今の佐藤には、田中のその提案が、自分という人間に残された唯一の『価値の証明』なのだと痛いほどに理解できた。
「天才気取りのエンジニアにはできない、凡人の泥仕事ってわけか。……上等だ」
佐藤はファイルの束を両手でしっかりと抱え込んだ。
その顔には、もうかつての虚栄心はなかった。代わりに、泥水に顔を突っ込んででも這い上がってやるという、一人の営業マンとしての野心が宿っていた。
「田中。俺はこの会社のシステムのことはよく分からんが、人間の『欲』と『見栄』の扱い方なら、嫌というほど学んだからな。……お前たちの完璧なシステムを、俺が現実社会のドブ板営業で繋いできてやるよ」
「……期待しています、佐藤さん」
田中が初めて、昔と同じような柔らかい笑みを浮かべた。
だがそれは、飼い主に向ける愛想笑いではなく、対等なプロジェクトの「パートナー」に向ける信頼の笑みだった。
佐藤はスーツのジャケットを羽織り、カバンにファイルを詰め込むと、オフィスを飛び出していった。
彼がかつて夢見た「莫大な配当」や「不労所得」は、もう手に入らないかもしれない。
しかし、自らの足で稼ぎ、自らの汗で生み出した価値だけは、決して誰にも奪われない絶対的な資産となる。そのことだけは、今の佐藤には確信できた。
***
その日の夕方。
最上階の社長室で、九条は窓の外に広がる夕焼けのオフィス街を見下ろしていた。
背後のソファでは、朝倉零がノートPCを開き、高速でキーボードを叩いている。
「……粛清は終わりました。残った社員たちも、幻想から目を覚まし、それぞれの持ち場で『真の価値』を生み出すために動き始めています。社長の思い描いた、健全な実力主義の組織に戻りつつありますね」
朝倉の報告に、九条は振り返らずに答えた。
「一時凍結しているTXシステムだが。……朝倉、お前はあれをどうするつもりだ?」
「もちろん、破棄などしませんよ」
朝倉は、ニヤリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「人間の『欲』をデータ化する実験は、第一フェーズを終えたに過ぎません。次なる『TXシステム Ver 3.0』のアルゴリズムは、すでに完成しています」
朝倉がエンターキーを叩くと、社長室の巨大モニターに、全く新しいインターフェースの画面が映し出された。
「株価という『人気投票』の時代は終わりました。次は、社内のあらゆる行動がブロックチェーン上のスマートコントラクトによって自動で評価され、報酬が分配される『自律分散型組織(DAO)』の実験です。……もう、人間が他人を評価する余地すら、一ミリも残しません」
朝倉の瞳が、狂気と好奇心でギラギラと輝いていた。
「さあ、第二のゲームを始めましょうか。ミライ・イノベーションの本当の地獄は、これからですよ」




