第14話 清算
ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)から一夜明けた、金曜日の午前9時。
ミライ・イノベーションの広大なオフィスは、まるで爆撃を受けた後の廃墟のような、異様な静けさに包まれていた。
社員たちは皆、自席に座ってはいるものの、誰一人としてキーボードを叩いていなかった。
虚ろな目で宙を見つめる者。デスクに突っ伏して動かない者。充血した目で、もはや更新されることのないスマートフォンの画面を何度もリロードし続ける者。
TXアプリの画面は、無機質なグレーアウト状態になっていた。
画面の中央には『市場閉鎖:清算フェーズに移行しました』というシステムメッセージだけが表示され、各人のポートフォリオの評価額は、残酷なまでに『0 MC』を示し続けている。
佐藤健太(35)は、自席の安っぽいオフィスチェアに深く腰を沈め、天井の蛍光灯をぼんやりと見上げていた。
(終わった……俺のボーナスが、いや、これまで積み上げてきた社内の立ち位置が、すべて消えた)
他人の才能をいち早く発掘し、底値で買い叩き、プロデューサー気取りでふんぞり返っていた日々。それがどれほど砂上の楼閣だったのかを、佐藤は骨の髄まで思い知らされていた。
しょせん自分は、他人の生み出した価値に寄生し、甘い汁を吸っていただけの「ダニ」に過ぎなかったのだ。宿主が死ねば、一緒に死ぬしかない無力な存在。
その時、全社員のスマートフォンが一斉に短い振動音を立てた。
グレーアウトしていたTXアプリの画面が切り替わり、一行のメッセージが表示される。
『午前10時より、1階大ホールにて全社集会を行います。全社員、速やかに集合してください』
社長の九条からの、絶対命令だった。
***
午前10時。
500人を収容できる大ホールは、重苦しい空気に満ちていた。
ざわめきすら起きない、葬式のような静寂。その中を、社長の九条と、開発部の朝倉零(26)が静かにステージへと登壇した。
九条はマイクの前に立つと、ホールを見渡し、表情を一切変えずに口を開いた。
「昨日の情報漏洩未遂、およびシステムの致命的なバグについてだが……鈴木と田中の迅速な対応により、外部へのデータ流出は未然にブロックされた。顧客からのクレームも、誤ったヘッダ情報が送られたのみで、実データの漏洩はゼロだ。賠償問題には発展しない」
その言葉に、ホール内で小さなどよめきが起きた。
会社は死んでいなかったのだ。致命傷は避けられた。
「ふざけるなッ!!」
突如、ホールの最前列から怒号が飛んだ。
血走った目を剥き出しにした、人事部長の篠原だった。彼は立ち上がり、ステージ上の九条に向かって指を突きつけた。
「被害がゼロなら、なぜTXシステムの配当プールをゼロにした! なぜ市場を閉鎖した! 私の資産を……私が築き上げた中崎株の含み益を返せ! この下らないゲームのせいで、社内はメチャクチャだ! 責任をとって、お前は社長を辞任しろ!!」
篠原の絶叫に、第1課のベテラン社員たちも同調して立ち上がり、「そうだ!」「俺たちのボーナスを返せ!」と暴動さながらの声を上げ始めた。
九条は、醜くわめき散らす篠原たちを、まるで路傍の石でも見るような冷ややかな目で見下ろした。
「……下らないゲーム、か。本当にそう思っているのか?」
九条の低い声が、マイクを通してホール全体に響き渡り、暴徒たちの声を一瞬で制圧した。
「才能の民主化。誰もが正当に評価されるユートピア。……私が、人間という生き物をそこまで信用しているとでも思ったか?」
九条が指を鳴らすと、ステージ背後の巨大なスクリーンに、黒い背景と緑色の文字列で構成された無数のログデータが映し出された。
「TXシステムとは、才能を評価するためのツールではない。……会社に巣食う『寄生虫』をあぶり出し、一網打尽にするための、巨大な『ストレステスト(罠)』だ」
「なっ……罠、だと……?」
篠原の顔から、さっと血の気が引いた。
スクリーンの表示が切り替わり、朝倉が操作するPCの画面が大写しになる。
そこには、篠原が人事部の特権を利用し、未公開プロジェクトの発表前に「中崎株」を大量に買い集めていたインサイダー取引の完全なログが、タイムスタンプ付きで記録されていた。
「ひっ……!」
「篠原部長。あなたは自分が『市場の胴元』だと錯覚していたようだが、あなたがバックドアだと思っていた穴も、すべて私が意図的に用意したハニーポット(監視用の罠)です。あなたの不正な資金移動は、ブロックチェーン技術によってすべて不可逆のデータとして記録されています」
朝倉がマイクを握り、楽しそうに解説を加える。
さらに画面が切り替わり、今度は第1課のベテランたちが結成した「ファンド」の行動ログが映し出された。他部署の承認フローを意図的に遅延させ、業務を妨害していたネットワークのアクセス履歴だ。
「空売りが禁止された市場で、他人の足を引っ張ることで自らの価値を上げようとした第1課の皆さん。あなた方の業務妨害の証拠も、すべてここに揃っています」
ホールは、水を打ったような静寂に包まれた。
篠原も、第1課のベテランたちも、口をパクパクとさせるだけで反論の言葉一つ出てこない。彼らは「誰にも見られていない」と思い込み、欲の赴くままにシステムを悪用していた。しかし、システムは血の通わない冷徹な目で、彼らの罪をすべて記録し続けていたのだ。
「評価権限を盾にふんぞり返り、情報の非対称性で私腹を肥やす老害。社内政治と足の引っ張り合いにしか労力を使わない無能な中間管理職。……こいつらを正規のルートで解雇しようとすれば、労働組合や法律が立ち塞がり、数年の歳月と莫大なコストがかかる」
九条は、ステージの縁まで歩み寄り、絶望に染まる社員たちを見下ろした。
「だから、私は『市場』という劇薬を与えた。……結果はご覧の通りだ。お前たちは、わずかなボーナスに目が眩み、自ら喜んで倫理を捨て、不正の証拠をシステム上にたっぷりと残してくれた」
それは、あまりにも壮大で、あまりにも冷酷な「リストラ計画」だった。
TXシステムは、社員を豊かにするためではなく、会社を腐らせているガン細胞に自らシッポを出させ、合法的に切除するための『手術台』だったのだ。
「就業規則違反、および背任行為。……スクリーンに名前の出ている篠原をはじめとする計42名。お前たちは本日付けで懲戒解雇処分とする。退職金は全額、会社への損害賠償に充当する」
九条の死刑宣告が下された。
篠原はその場に崩れ落ち、第1課の男たちは頭を抱えて泣き崩れた。しかし、周囲の社員たちから彼らに同情する者は一人もいなかった。
「さて……」
九条はホールの後方へと視線を向けた。
「残った者たちに告ぐ。お前たちの持っていた株の含み益は、今回の騒動のペナルティとしてすべて没収し、予定通りゼロとする」
「そんな……!」
ホールに絶望のどよめきが広がる中、九条は言葉を継いだ。
「だが、TXシステムが完全に無意味だったわけではない。この狂乱の市場の中で、他人の顔色や株価に惑わされず、自らの技術で『会社を救う』という真の価値を生み出した者が二人だけいた」
ホールの最後列。
壁に背を預けて静かに立っていた田中翔と、その隣で俯いていた鈴木亮平に、全員の視線が集中した。
「田中翔。鈴木亮平。……お前たちが昨日、システムの崩壊を食い止めるために叩き出したコードの貢献度は、アルゴリズムによって正確に数値化されている」
九条の背後のスクリーンに、信じられない数字が表示された。
『田中翔:特別報酬 1,500万円』
『鈴木亮平:特別報酬 1,200万円(※過失相殺後)』
「システムが算出した、純粋な『技術的価値』に対する正当な対価だ。これは私のポケットマネーから、本日付けで振り込ませてもらう」
ざわめきが、どよめきに変わり、やがて言葉にならない感嘆の息へと変わった。
株価の上下という虚業に踊らされていた者たちはすべてを失い、株価が『1 MC』になってもコードを手放さなかった者だけが、圧倒的な富を手にしたのだ。
「……田中」
佐藤は、少し離れた場所に立つ田中の背中を見つめながら、震える声で呟いた。
佐藤の口座には、一円の報酬も振り込まれない。彼もまた、不正こそしなかったものの、他人の才能にタダ乗りしようとしただけの「価値を生まない人間」と判定されたのだ。
「俺は……間違っていたのか……」
佐藤の呟きは、誰の耳にも届くことなく、ホールのざわめきの中に消えていった。
すべてを焼け野原にした社長の「清算」が終わり、ミライ・イノベーションという会社は、本当の意味での『実力主義』の第一歩を踏み出そうとしていた。




