第13話 真価
カタ、カタカタカタッ……!
ターンッ!!
阿鼻叫喚の地獄と化していたミライ・イノベーションのオフィスに、二つのキーボードの打鍵音だけが、まるで正確なメトロノームのように響き渡っていた。
田中翔(25)と、鈴木亮平(32)。
彼らの周囲だけが、まるで時間の流れが違うかのように、異常なほどの静寂と極限の集中に包まれていた。
「鈴木さん、フロントのAPIゲートウェイでトラフィックを一時的に遮断しました。AWSのRoute 53でDNSのルーティングを切り替え、ダミーのメンテナンス画面(Sorryページ)に流しています。これで新規の誤送信は完全にストップしました」
「ありがとう、田中君。……よし、僕の方はバックエンドの非同期処理のキュー(SQS)に溜まっていた不正なトランザクションをすべて『デッドレターキュー(DLQ)』に退避させた。これで被害の拡大は防げる。ここから根本原因であるレースコンディション(競合状態)のロジックを書き直す」
鈴木の指は、先ほどの痙攣が嘘のように、キーボードの上を滑らかに舞っていた。
(……軽い)
鈴木は、コードを打ち込みながら、これまでにない不思議な浮遊感を感じていた。
昨日までの彼であれば、一文字コードを打つたびに「これで株価が下がらないか」「誰かの期待を裏切らないか」という恐怖が脳裏にチラつき、胃がキリキリと痛んでいた。
だが今は違う。自分の株価は『1 MC』。
自分に全財産を預けていた同僚たちは、パニック売りで全員いなくなった。自分の背中にはもう、誰の人生も、誰のボーナスも乗っていない。自分はただの「無価値な人間」だ。
だからこそ、一切の雑念なく、純粋に「目の前の壊れたシステムを直す」ことだけに没頭できる。
かつてプログラミングを始めたばかりの頃、徹夜でバグと格闘し、それが動いた瞬間に感じたあの純粋な喜び。投資という名の呪縛から解放された鈴木は、失っていたエンジニアとしての真の輝きを取り戻していた。
「おい、田中……! 鈴木……!」
二人の背後から、ひきつった声が投げかけられた。
佐藤健太(35)だった。彼はスマートフォンを力なく握りしめ、亡霊のような顔で二人を見下ろしていた。
「お前ら、何のためにそんなに必死になってるんだ……? 鈴木の株価はもう1 MCのゴミなんだぞ。田中の株価だって、この情報漏洩で会社の今期の利益が吹き飛べば、配当ゼロで無価値になる。……いくら頑張って直したって、俺たちにはもう一銭のボーナスも入らないんだぞ……!」
佐藤の言葉には、純粋な混乱があった。
TXシステムによって「すべての行動は株価のため」という価値観に脳を焼かれた彼にとって、金にならない仕事に命を削る二人の姿は、狂気の沙汰にしか見えなかった。
田中はモニターから目を離さず、淡々と答えた。
「システムが壊れているからです。そして、僕と鈴木さんなら、それを直せる。……エンジニアがコードを書く理由なんて、それだけで十分じゃないですか」
「なっ……」
佐藤は言葉を失い、よろめくように後ずさった。
「どけ!!」
その時、怒声と共に人垣を掻き分けて飛び込んできたのは、人事部長の篠原だった。
篠原の顔はどす黒く変色し、額からは滝のような脂汗が流れていた。
「お前ら! さっき『誤送信の被害をストップした』と言ったな!? なら、今すぐ送信ログを消去しろ! データが漏洩したという証拠を、データベースごと隠蔽するんだ!」
篠原の狂った命令に、周囲の社員たちが息を呑んだ。
「何をやっている! 早くしろ!」
篠原は血走った目で叫んだ。
「この情報漏洩が明るみに出れば、政府のスマートシティ実証実験(5億円のプロジェクト)の委託が取り消される! そうなれば、私が全財産を注ぎ込んだ『中崎株』の価値まで暴落してしまうんだ! いいからログを消せ! 会社の、いや、私の資産を守れ!!」
それは、インサイダー取引で私腹を肥やそうとしていた権力者の、あまりにも醜い断末魔だった。自分の利益のためなら、犯罪行為である証拠隠滅すら躊躇わない。
篠原が田中のノートPCを取り上げようと手を伸ばした、その瞬間。
「……触るな」
絶対零度の声が、フロアを凍りつかせた。
鈴木だった。
彼は立ち上がり、かつての「誰にでも愛想のいい好青年」からは想像もつかない、冷酷で鋭い眼差しで篠原を睨み下ろしていた。
「すでにすべてのアクセスログとエラートレースは、AWSのオブジェクトロック(改ざん防止ストレージ)に自動保存されるよう、田中君がアーキテクチャを書き換えました。システム管理者の権限でも、社長の九条であっても、二度とこのログを消すことはできません」
「き、貴様……っ! 自分が何をしたか分かっているのか! 会社を売る気か!!」
「売ったのはあなた方だ」
鈴木は、篠原と、その後ろで呆然としている同僚たちを冷たく見渡した。
「あなた方は、僕たちを『金融商品』として買い叩き、重圧をかけ、倫理を歪めた。……僕はもう、あなた方の顔色を窺ってバグを隠蔽する『優等生(トップ銘柄)』じゃない。ただの、1 MCのプログラマだ」
鈴木は再び椅子に座り、キーボードに手を置いた。
「田中君、デプロイ(本番環境への反映)の準備はいいか」
「はい。CI/CDパイプライン、オールグリーン。いつでもいけます」
田中と鈴木の目が合い、無言で頷き合う。
それは、大株主でもなく、投資家と金融商品でもない、対等な二人の技術者が心を通わせた瞬間だった。
「エンター、ターン」
午後2時15分。
鈴木が力強くキーボードを叩きターンした。
修正された強固なプログラムが、ミライ・イノベーションの基幹システムへと瞬時に注入される。
巨大モニターに映し出されていた真っ赤なエラーログの滝が、ピタリと止まった。代わりに、正常なデータ処理を示す緑色のトラフィックが、静かに、そして力強く脈を打ち始める。
「……誤送信の再発、完全にストップしました! 退避させていた正しいデータも、正常に処理され始めています!」
品質保証部のマネージャーが、震える声で報告した。
「終わった……」
「助かった……直ったんだ……」
オフィス中に、安堵の深いため息が広がった。
数億円規模の追加被害と、システムの完全崩壊という最悪の事態は、二人の見捨てられたエンジニアの執念によって、間一髪で回避されたのだ。
だが、歓喜の声は上がらなかった。
システムは直った。会社は物理的な死を免れた。
しかし、彼らのスマートフォンに表示されているTXアプリの画面が、冷酷な現実を突きつけていたからだ。
情報漏洩による多額の損害賠償と、プロジェクトの頓挫。
今期のミライ・イノベーションの営業利益は、間違いなく「大幅な赤字」に転落する。
それはすなわち、TXシステムの配当プール(ボーナスの原資)が『ゼロ』になることを意味していた。
『現在、市場の全銘柄の理論上の配当利回りは 0% です』
アプリの画面に無機質に表示されたその一文。
社員たちが血眼になって奪い合い、他人を蹴落とし、鈴木を暴落させてまで自分だけが確保しようとした『ミライ・コイン』の束は、換金する先を失い、ただの「電子のゴミ」へと変わったのだ。
「ああ……あぁぁぁ……」
「俺の、ボーナスが……俺の資産が……」
篠原が、佐藤が、そして第1課のベテランたちが、次々と床に崩れ落ちていく。
仮想の市場で富を築いたと錯覚していた人間たちが、システムという名の幻想の崩壊と共に、完全にすべてを失った瞬間だった。
「……お見事」
静寂に包まれたフロアに、パチ、パチ、と場違いな拍手が響いた。
パーカーのポケットに両手を突っ込んだ朝倉零が、満足げな笑みを浮かべて田中と鈴木の前に歩み出てきた。
「見事なカウンター(反逆)でした、お二人とも。株価という幻想に踊らされた愚者たちがすべてを失う中で、評価を捨てたあなたたちだけが、本物の『真価』を証明して見せた」
朝倉は、完全にフラット(無価値)になったTXシステムの巨大チャートを見上げて、楽しそうに目を細めた。
「さて、ゲーム盤は完全にリセットされました。……社長の九条が、この焼け野原を見てどう動くか。ここからが『第二ラウンド』の始まりですよ」




