第12話 底値
TXアプリの画面に表示されたチャートは、まるで断崖絶壁から身を投げる自殺者の軌跡だった。
『4,500 MC』という、誰もが永遠に続くと信じていた絶対的な高値。
それが、全社員による我先にと非常口へ殺到するパニック・セル(恐慌売り)によって、たったの15分で崩壊した。AMM(自動マーケットメーカー)のアルゴリズムは、殺到する売り圧力を正確に計算し、容赦なく価格を切り下げていく。
やがて、滝のように流れていた『売り約定』のログが、ピタリと止まった。
『鈴木亮平(開発部):現在価格 1 MC』
それは、システムが設定できる下限値。実質的な「無価値」を意味していた。
会社の神様であり、全社員の資産の拠り所だったエースエンジニアは、文字通り一瞬にして『紙屑』へと成り下がったのだ。
「……あ、あぁ……俺の、俺のマンションの頭金が……」
「嘘だろ……システムのエラーじゃないのか……? 頼む、元に戻ってくれよ……!!」
オフィスは、お通夜のような不気味な静寂と、すすり泣く声に包まれていた。
自席のモニター前で膝から崩れ落ちた佐藤健太(35)は、画面に表示された『含み損:-99.9%』という赤い数字を見つめ、焦点の合わない目で乾いた笑いを漏らしている。
だが、仮想の株式市場が崩壊しても、現実世界の危機は終わっていない。
ジリリリリッ!! トゥルルルルッ!!
フロア中に鳴り響くクレームの電話の音は、今この瞬間も、致命的なバグを含んだCRMシステムが、顧客の機密データを誤送信し続けていることを示していた。
「おい! いつまで呆然としている!!」
品質保証部(QA)のマネージャーが、怒号を上げて開発部のフロアに飛び込んできた。
「今すぐメインサーバーの電源を物理的に落とせ!! これ以上被害を広げるな! ネットワークのケーブルを引き抜け!!」
その指示に、数名の若手エンジニアが弾かれたようにサーバルームへと走ろうとした。
「待ってください!!」
フロアの空気を切り裂くような、鋭く通る声。
声の主は、田中翔(25)だった。
彼は自席から立ち上がり、QAマネージャーの前に立ちはだかった。
「今、メインサーバーを強制シャットダウンしたら、実行中のバッチ処理が途中で切断されて、データベースのテーブルにロックがかかります! トランザクションが不整合を起こしてデータが完全に破損したら、二度と復元できなくなりますよ!」
「じゃあどうしろって言うんだ! このまま情報漏洩を垂れ流して、会社を潰す気か!?」
マネージャーの悲痛な叫びに、田中は奥歯を強く噛み締めた。
強制シャットダウンは最悪の手段だ。被害を止めるには、稼働中のサーバーに直接パッチを当てて安全にプロセスを停止させ、正しいデータルーティングに書き換える『ホットフィックス(緊急修正)』を行うしかない。
しかし、その巨大で複雑に絡み合ったCRMのスパゲティコードを完全に把握しているのは、この社内でただ一人しかいない。
田中は振り返り、床にうずくまっている男を見下ろした。
鈴木亮平(32)。
かつて完璧なスーツを着こなし、爽やかな笑顔を振りまいていたトップ銘柄は、今は両手で頭を抱え、子供のようにガタガタと震えながらうわ言を繰り返していた。
「ごめんなさい……僕のせいで、皆のお金が……ごめんなさい、ごめんなさい……」
極限のプレッシャーと、同僚たちの資産を吹き飛ばした罪悪感。それが鈴木の精神を完全に破壊していた。彼にもう、コードを書く気力は残っていないように見えた。
(……僕が、決断を先延ばしにしたからだ。他人の顔色を窺って、バグを見逃したから)
田中は、自分の欠点から目を逸らすのをやめた。
彼はゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出すと、TXアプリを立ち上げた。
そして、迷うことなく『購入(BUY)』のタブを開いた。
田中はこれまで、与えられた初期資金(10万MC)を一切使わずに保持していた。佐藤に「下手に動かして損をするな」と禁じられていたからだ。
田中は、その資金のすべてを、現在『1 MC』で市場の底に沈んでいる「ある銘柄」の購入に全額フルレバレッジで叩き込んだ。
ピコンッ。
静まり返ったオフィスに、一件の場違いなシステム通知音が響き渡った。
巨大モニターのログに、緑色の文字が浮かび上がる。
『田中翔(営業部):鈴木亮平の株式を 100,000株 買い約定しました』
「……は?」
QAマネージャーが、呆けたような声を上げた。
放心状態だった佐藤も、信じられないものを見る目で田中を見上げた。
「た、田中……? お前、何をやってるんだ……? 1 MCのゴミ株を、なんで今更……」
誰もが理解できなかった。
会社が倒産するかもしれないこの絶望の淵で、なぜ無価値になった人間の株を買うのか。
田中はスマートフォンをポケットにしまうと、床にうずくまる鈴木の前にしゃがみ込み、その肩をガシッと掴んだ。
「……鈴木さん。顔を上げてください」
「ひっ……! 怒らないでくれ、僕のせいだ、僕がみんなのボーナスを……!」
「ボーナスなんて、もう誰も期待していませんよ」
田中は、震える鈴木の目を見据えて、はっきりと冷酷な事実を告げた。
「あなたの株価は1 MCです。誰もあなたに『完璧なエース』なんて求めていない。総務部の娘さんの塾代も、先輩のローンも、もうあなたの背中には1ミリも乗っていません。あなたは、投資家たちから完全に見捨てられた、無価値な紙屑です」
鈴木の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
すべてを失った絶望。だが、田中の言葉はそこで終わらなかった。
「……そして今、市場に溢れ返っていたあなたの株を、僕が底値で100パーセントすべて買い占めました。現在、あなたの絶対的な筆頭株主は『僕一人』です」
田中は、鈴木の胸ぐらを掴んで、無理やり立ち上がらせた。
「株主として、あなたに一つだけ命令します。……エラーを隠すための汚いコードじゃなく、あなたが本当に書きたかった、美しくて正しいコードを書きなさい。僕たちは、エンジニアでしょう!」
その言葉が、鈴木の鼓膜を、そして死に絶えかけていた心臓を激しく打った。
(……僕は、エンジニアだ)
重すぎる「期待」と「善意」という名の呪縛。
誰かの人生を背負わされ、失敗を許されず、息を殺して完璧な偶像を演じ続けてきた日々。
それが今、株価が1 MCになったことで、すべて綺麗さっぱり消え去ったのだ。今の自分は、ただの「コードを書くのが好きな、一人のプログラマ」に過ぎない。
鈴木の虚ろだった瞳の奥に、小さな、しかし確かな光が宿った。
彼はネクタイを乱暴に引き剥がし、ネクタイピンを床に投げ捨てた。
「……DBのトランザクションロックを回避しつつ、非同期処理のキューを安全にパージ(消去)するスクリプトを組む。僕がバックエンドの根本原因を修正するから、田中君はフロントのAPIルーティングを遮断して、被害の拡散を止めてくれ」
鈴木の口から出たのは、謝罪でも言い訳でもなく、極めて正確なシステム復旧のアーキテクチャだった。
「了解しました」
田中は力強く頷いた。
二人のエンジニアが、並んでコンソール(黒い画面)に向かう。
カタ、カタカタカタッ……!!
オフィスに、凄まじいタイピング音が響き始めた。それは、絶望の底から反撃の狼煙を上げる、二人の天才の共鳴音だった。
「……な、なんだあいつら……」
佐藤をはじめとする社員たちは、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
金融商品として完全に終わったはずの人間が、なぜあんなにも生き生きと、凄まじい熱量で仕事に向かっているのか。投資の論理(株価)に脳を焼かれた彼らには、目の前で起きている奇跡の意味が理解できなかった。
「……ハハッ。あははははは!」
フロアの隅の暗がりで、その一部始終を観察していた朝倉零が、腹を抱えて笑い声を上げた。
「素晴らしい……! システムが人間を絶望の底に叩き落とし、完全に破壊した。なのに、そのシステムが弾き出した『1 MC』という数字(評価)を盾にして、自らを呪縛から解放するとは……!」
朝倉の目は、未知のバグ(可能性)を発見したハッカーのように、歓喜に震えていた。
「これだから、人間は面白い。……さあ、見せてもらいましょうか。すべての評価を捨てた『純粋な技術』が、この崩壊したシステムをどう救うのかを」
キーボードを叩く田中の横顔は、かつての怯えた若者のものではなかった。
他人の顔色を窺うだけの「バリュー株」は死んだ。
今、この瞬間から、会社を救うための真の反逆が始まる。




