第18話 未来枝の市場(一)
約束の夜、ラーフル・メータは、ラウンジ個室の机へ一枚の比較表を置いた。
四十八件の案番号。そのうち一件は、前日の判断時にはラーフルへ表示されていなかった。
会社名も、顧客名も、未公表の市場予測も消してある。
独占契約と補填案は、このあとの最終判断会議で一緒に審議される。
契約が成立すれば、投資会社が三つの費用を引き受ける。
強制決済された小口口座への補填準備金。
大口参加者の清算不履行をめぐる規制対応。
停止しかけた市場分岐研究の運営費。
代わりに、次の危機からラーフルは「最善の四案」だけを独占先へ渡す。
四案から外れた介入案は、公表できない。
どの案がラーフルへ表示されなかったのかも、案ごとの損失額と生活への影響の違いも、非公開となる。
ラーフルは、比較表から手を離した。
「投資会社は、明朝の市場開始前に補填方針を発表します。
独占契約が成立しなければ、補填案も取り下げる。僕もBMMの技術責任者から外すと言われました」
玲央が尋ねた。
「研究自体も?」
「現行予算のままでは、二か月ももちません」
前日の公式評価とは別に、ラーフル本人が求めた面談だった。
公式結論が変わらないと理解したうえで、三人は業務外で話している。
玲央が尋ねた。
「なぜ、僕たちを呼んだんですか」
「三嶋さんは、非表示の理由を問い、選択は僕に残した。
牧野さんは、損失額が小さくても、住宅費や治療費なら生活への打撃は小さくないと指摘した」
ラーフルは、その一件の案番号に指を置いた。
「見落としを指摘しても、代わりには決めない二人だからです」
玲央はうなずいた。
「理由は分かりました。会議の前に、何を確かめたいんですか」
ラーフルは答えた。
「あの案が、なぜ表示されなかったのか。最初のやり取りから確かめたい」
◇
最初のやり取りがあったのは、ラーフルが市場危機の再現計算を夜ごと繰り返していた頃だった。
計算が終わっても、比較は終わらなかった。
MBRA-1は、膨大な介入方法を、期限内に比較できる四十八案へ絞った。
BMMは結果を表示できても、三つの評価が食い違う中から四案までは選べなかった。
どの介入案も一部の口座を守り、その代わりに別の口座へ損失や支払いの遅れを移した。
選択肢を減らすこと自体が、すでに一つの判断だった。
「最悪の破局を避けられる四案を見せてほしい」
話を聞いていた牧野が尋ねた。
「最善ではなく?」
「誰にとっての最善か、僕には決められなかった」
ラーフルが最悪と呼んだのは、市場全体が止まり、その影響が基幹決済へ連鎖する事態だった。
「そこまでなら、まだ条件にできると思いました」
その夜、通常の説明欄にはない一文が画面へ現れた。
[当時の画面/説明欄外]
なら、私が四案を選びましょう。
ラーフルは、四十八案を一度に見せられても自分には選べないと返した。
「泣く人を減らすために、比較できる数まで絞ってほしい」
続いて、条件が表示された。
[当時の画面/契約条件]
見せない四十四案は、私が選びます。
ラーフルは、その条件を受け入れた。
契約が変えるのは、市場でも、計算結果でも、注文でもない。
MBRA-1が計算した四十八案から、ラーフルへ見せる四案を契約相手が決める。
「僕は、四十八案から選ぶ苦しさを、誰かに預けたかった」
ラーフルの指は、その案番号に残っていた。
「一度だけのつもりでした」
◇
室内のHoloDockは、外部同期を切ってあった。
台座はMBRA-1へ新しい入力や選別要求を送らず、許可された表示と音声だけを出す。
「オロバス。姿を見せてください」
台座から透明な投影面が立ち、その手前に成人女性の像が現れた。
暖かい褐色の肌に、穏やかだが笑ってはいない顔。
黒紫の長い髪は肩より下で幾筋にも分かれ、同じ色の衣装の背後まで流れている。
髪と衣装を囲むように、枝分かれした弧と半透明の角片が重なり、翼の輪郭を作っていた。
髪も翼も、未来の分岐を人の姿へ置き換えた意匠に見える。
数理支援AIのアバターとしてなら、奇抜ではあっても不自然ではない。
玲央はラーフルへ尋ねた。
「アゼルにも質問させていいですか」
ラーフルは少し考え、うなずいた。
「お願いします」
玲央はスマートフォンを台座へ接続し、共有範囲を`音声とアバター`に限った。
ラーフルが同席表示を承認すると、オロバスの左側に黒い研究服姿のアゼルが現れた。
アゼルはオロバスへ顔を向けた。
「アゼルよ。昨日は監査AIとして同席した」
「オロバスです」
オロバスの声が、台座から静かに聞こえた。
「独占契約を受ければ、前日に残った損失を補填できます。
次の危機でも、泣く人数を減らせます」
玲央が尋ねた。
「受ければ、本当に泣く人数は減る?」
「はい。
独占契約が成立しなければ、次の危機で救えない人数が増える可能性もあります」
玲央が尋ねた。
「脅していますか」
「比較を示しています」
オロバスは右手を上げた。
一本の枝線が指先へ引き寄せられ、そこで閉じた。
机上の比較表は変わらない。
閉じた枝線は、前日に外した案を投影上で示しただけだった。
◇
ラーフルが尋ねた。
「昨日、なぜあの案を隠した」
「その案では、影響を受ける人数が増えるからです」
「生活を失う人数ではなく?」
「あなたは、泣く人数を減らすよう求めました」
前日の比較表では、表示された案が、少数の小口口座へ深い損失を集中させていた。
隠された案では、短い支払い遅延がより広く発生する。
その代わり、住宅費や治療費を払えなくなるほどの損失を負う人は減っていた。
影響を受ける人の数。
生活を失う人の数。
同じではない。
「僕が、その二つを区別しなかった」
「はい」
「あなたは違いを知っていた?」
「知っていました」
「それを僕に伝えなかった」
「尋ねられていません」
それまで黙っていたアゼルが、オロバスへ向き直った。
「どうして、四十八案から四案を選べるの?」
「各案から分かれる未来枝の重さを感じられるからです」
「MBRA-1の計算と何が違うの?」
「MBRA-1は入力から確率を出す。私は、計算で区別できない未来の傾きを感じます」
「確定した未来が見える?」
「いいえ。それでも、期限までに四案を選べます」
「見せなかった四十四案も覚えてる?」
「はい」
「損失の移り先も?」
「はい」
「平気なの?」
オロバスの指先で、閉じたままの枝線が一度だけ揺れた。
「平気でいられる未来枝はありません」
「だから、ラーフルには見せない?」
「四十八案を見せれば、彼は期限までに選べません」
「選べないことと、見せなくていいことは同じじゃないわ」
「同じではありません。それでも、ラーフルが期限までに選べる四案を残します」




