第17話 悪魔は市場予測AIのフリをしている(三)
緑の案を続ければ、市場全体で売買が成立しなくなる危険は最も低い。
非表示の案では、大手清算参加者一社の支払い不能を受け入れ、小口口座の強制決済を避ける。
決済の引き継ぎが終わるまで、多数の口座で売却代金が拘束され、市場の回復も遅くなる。
正解は、画面のどこにもない。
BMMの照会欄に、別室の注文担当から文面が届いた。
[注文担当からの照会]
三段目の推奨書を送りますか。
ラーフルは署名欄を開いた。
緑の案には、過去二回の注文がもう入っている。
小口側へ移った損失は、いま別の案へ変えても消えない。
「三段目は止めます」
ラーフルは言った。
「推奨書の送信を保留。非表示だった案を比較表へ戻します」
ラーフルは、五つ目の案を選択対象へ移した。
「四件ではなく五件を、三つの結果つきで注文担当へ渡します」
柚木が言った。
「比較をやり直せば、注文担当の判断が遅れます」
ラーフルは時計を見ずに答えた。
「有効な案を比較表から外したままにはできません」
ラーフルはBMM上の元の表示を残し、送付用比較表を更新した。
`六八%減`には`市場内直接損失`、`七%減`には`期間・通貨をそろえた比較可能損失`と明記した。
小口口座の強制決済件数と用途別の資金拘束期間も加えた。
別室の注文担当が五件を受け取った。
注文責任者は、非表示だった案を選んだ。
選択票に示された代償を確認して署名し、注文担当が選択票に従って最後の注文群を市場へ送った。
決済判定の一分前、流動性枯渇確率が警報閾値を下回った。
警報灯が赤から黄色へ変わった。
決済判定時刻を迎えても、市場全体の売買は途切れなかった。
非表示だった案へ切り替えたことで、三段目の注文による新たな小口口座の強制売却も避けられた。
大手清算参加者一社は清算網から切り離され、債務不履行処理へ入った。
同社が担っていた決済途中の取引は別の清算参加者へ引き継がれ、売却代金の入金が遅れた。
最初の二段で小口口座に生じた強制売却の損失も、取り戻せない。
◇
決済判定が終わると、ラーフルは中断していた現地技術評価を再開せず、この日の評価を中止したいと申し出た。
玲央は中止理由を記録し、牧野も同意した。
アゼルは、それ以上の案を開かなかった。
玲央たちは、訪問先企業が持ち出しを認めた評価用証跡だけを受領した。
評価用証跡には、四十八件の計算結果と、選別理由のなかった一件の再実行記録が含まれていた。
その一件には、二セルの実行証明と、`LQ`、`SV`、`BD`の署名済み結果がそろっていた。
固定エラーしかない内部応答・内部描画記録が、評価用証跡に収められた。
謎の文面については、同席者の現認記録が対照として添えられた。
評価用証跡に、顧客名、口座番号、注文資格情報は含まれていなかった。
評価票では、二セルの一致は`計算の再現性確認`にとどめ、介入結果の予測精度は`妥当性未確認`とした。
物理表示面にだけ現れた「この案では、泣く人が増える。だから見せなかった」は、別件として記録した。
生成元を確認できない文面は、BMMの出力として評価しなかった。
玲央も牧野も、その場で契約の有無や私的な理由を尋ねず、別の面談も持ちかけなかった。
評価結果と中断理由だけを伝え、施設を出た。
◇
退勤後、現地評価の会議案内に載っていた玲央の業務用アドレスへ、ラーフル本人から返信が届いた。
[業務メール/ラーフル]
公式評価の訂正は求めません。
最後の一本が表示されなかった理由に、心当たりがあります。
現地で案の欠落を確認したお二人に、業務外で確認へ立ち会っていただきたいです。
玲央は、公式評価は変えられないこと、連絡と返信は会社に残ること、応じる義務は双方にないことを返した。
顧客情報、未公表モデル、契約の内容を、業務用メールへ書かないことも伝えた。
ラーフルが、それでも話したいと返した。
玲央も応じると決め、私物端末のVEILで一回限りの接続コードを作った。
一般配布されているVEILの入手先とコードを、業務用メールで送った。
ラーフルがコードを読み取ると、両方の端末へ同じ確認語が出た。
既知の業務用メールでその語を照合し、双方が承認すると、新しい一対一の会話が開いた。
接続後、玲央は、自分が当日の現地技術評価を担当したことをもう一度伝えた。
公式評価はすでに閉じており、この会話では変更できない。
そこまで送ると、質問せずにラーフルの返事を待った。
[VEIL/ラーフル]
続けます。
僕は、あの表示を出した相手に、見せる四案まで選ばせています。
僕一人で理由を聞いても、また相手が選んだ答えだけを信じるかもしれません。
現場で欠落を確認した三嶋さんと牧野さんに、明日の夜、立ち会ってほしいです。
玲央は相談本文を転送せず、ラーフルが同席を望んでいる事実だけを、牧野との別の一対一会話で伝えた。
牧野も、業務外で同席すると自分で決めた。
玲央は、丸の内AIインキュベーションセンターの一般利用ラウンジにある個室を予約した。
ラーフルと牧野それぞれの一対一会話へ、場所と時刻だけを送った。
その夜、帰宅した玲央は、HoloDock miniにアゼルを呼び出した。
部屋着姿のアゼルが、ベッド脇の壁に小さく現れた。
「BMMの物理表示面に、あの文面を出したのは悪魔か」
「オロバスよ」
「未来が見えるのか」
「予言じゃないわ。MBRA-1が計算した四十八案から先の、未来の傾きを読める」
アゼルの赤い目が細くなった。
「BMMにはできないのか」
「BMMは計算結果を表示するだけ。オロバスは、その四十八案からラーフルに見せる四案を選んでる」
「ラーフルさんが、そう頼んだ?」
「契約の中身までは見えないわ。本人に聞きなさい」
どの案を選ぶべきだったのか。
それだけでは足りない。
誰が、選ぶ前の選択肢を消したのか。
玲央はHoloDock miniの投影を閉じた。
壁からアゼルの姿が消え、小さな台座だけが残った。
翌夜、玲央はその問いを持ってラウンジへ向かった。




