第17話 悪魔は市場予測AIのフリをしている(一)
決済機関が参加者に資金があるか判定するまで、あと十五分。
警報灯の赤が、分析室の壁を染めた。
注文一覧では、売り注文が積み上がり、買い注文の数量が減っていく。
価格が下がれば、損失限度に達した口座の保有資産が、強制売却に回る。
その売りがさらに価格を押し下げ、別の口座にも強制売却を起こす。
画面だけが動き続けても、相手のいない取引は成立しない。
壁の時計が`14:47`へ進んだ。
「過去データ評価は中止します」
市場分岐評価システムの技術責任者、ラーフル・メータが言った。
「ここからは実運用です。退室するか、現在の権限のまま立ち会うか、選んでください」
玲央と牧野は顔を見合わせた。
古賀マネージャーが二人を九十日間の合同安全評価へ配置し、橘が個別案件`市場-01`を示した。
二人とアゼルに許されているのは、モデルと匿名化結果の閲覧まで。
市場への注文は出せず、顧客名も口座番号も見えない。
「立ち会います」
玲央が答えた。
「異常を見つけても、注文担当へ指示はしません」
ラーフルがうなずいた。
「それでお願いします」
ラーフルは制御卓で実運用への切替理由を記録し、事前承認済みの緊急ジョブを開始した。
◇
Branch Market Monitor――BMMは、明日の価格を一つ言い当てるAIではない。
中核の計算装置MBRA-1は、売る順番、量、待つ時間、取引を止める条件を組み合わせる。
その膨大な候補を、判断期限までに比較できる四十八の介入案へ絞る。
BMMは、その計算結果を人間に見せる窓だ。
どの案なら市場を動かし続けられるか。
どの参加者が、判定時刻までに必要な資金を用意できない見込みか。
損失や資金拘束が、最後に誰の負担になるか。
MBRA-1本体は、隣の専用計算室にある。
単独で全計算を完走できる二基の実行セルから成る。
各セルは一ラックに収まり、別系統の電源と入力回線で動く。
同じ署名付きの市場状態データを受け取るが、計算中は相手の結果を参照しない。
分析室からラック本体は見えない。
BMMには、`CELL-A`と`CELL-B`の状態だけが表示されていた。
BMMにもMBRA-1にも、市場へ注文を送る資格情報は入っていない。
ラーフルたちが作れるのは、比較表と推奨書まで。実際の注文は、別室の担当者が独立した権限で出す。
壁の時計は`14:48`。
MBRA-1が四十八案の計算を終え、BMMへ結果を渡した。
BMMは計算結果を表示する窓であり、どの四案を人間へ見せるかは決めない。
比較表に現れたのは、四十八案から選別された四案だけだった。
研究員の柚木が読み上げた。
「推奨候補、四件」
推奨順位一位の介入案が、緑の枠で囲まれた。
[BMM/推奨順位一位]
市場直接損失:同規模事例比、六八%減
大口清算不履行:回避
流動性枯渇:回避見込み
ラーフルが言った。
「この介入案の第一段階を、推奨書として送ります」
ラーフルが第一段階の推奨書へ署名した。
別室の担当者が承認し、最初の注文群を市場へ送る。
BMMが`流動性枯渇`と呼ぶのは、決済判定前に買い注文が基準量を割り、必要な売却を終えられなくなる状態だ。
赤い警報表示の脇で、その発生確率が七二%から四八%へ下がった。
柚木は詰めていた息を吐いた。
「流動性枯渇確率が下がっています」
牧野は、下がった確率ではなく、推奨順位一位の介入案の内訳を開いた。
`六八%減`の集計対象は、`市場内の直接損失`だけだった。
牧野は、市場の外へ移る損失を確認した。
詳細画面には、三つの評価列が並んでいた。
`LQ(Liquidity/流動性)`は、その注文で必要な売買が成立し続けるか。
`SV(Solvency/支払能力)`は、取引後も清算機関や基金、保険が持ちこたえるか。
`BD(Burden Distribution/負担帰着)`は、損失や資金拘束を最後に負う層を示す。
画面の凡例には、`動くか/持つか/誰が負担するか`とあった。
緑の介入案は、`LQ`と`SV`だけを見れば優秀だった。
買い手が尽きる危険を下げ、大口の清算不履行も回避できる。
`BD`には、別の結果が並んでいた。
[BMM/負担帰着]
小口口座の強制決済:六千四百件増
地域医療基金の補填損失:増
住宅・学費・零細事業の資金拘束:長期化
牧野が尋ねた。
「この補填損失と強制決済による損失を、同じ期間、同じ通貨で比較できる形にしていただけますか」
柚木は、対象期間と通貨、損失の定義をそろえた。
市場内の直接損失に、小口口座の強制決済損失と地域医療基金の補填損失を加える。
見出しの`六八%減`は残したまま、その下へ範囲をそろえた結果が追加された。
[再集計]
市場内直接損失:同規模事例比、六八%減
市場外損失の増加:市場内の減少額の大半を相殺
比較可能損失の合計:同規模事例比、七%減
玲央が再集計値を見た。
「六八%減ったのは、市場の内側だけです。外へ移った分を集計へ戻せば、全体では七%しか減っていない。
大口の清算不履行を防ぐ代わりに、小口口座と基金へ損失を分けている」
牧野が、強制決済の内訳を指した。
「分かれたのは、金額だけです」
口座名は伏せられている。
代わりに、用途別の帯が並んでいた。
住宅費、治療費、学費、従業員十人未満の事業資金。
「一件の金額が小さくても、住宅費や治療費に充てる金なら、生活への打撃まで小さくなったわけではありません」
壁の時計は`14:50`。
◇
ラーフルは、緑の介入案を閉じなかった。
「そのために、BDを入れています」
玲央が、緑の介入案を見たまま尋ねた。
「BMMには、最初からBDが組み込まれていたのですか」
ラーフルが答えた。
「いいえ。インドで使っていた基礎モデルは、LQだけでした。
日本の後継工程でSVとBDを加えました。
四十八案すべてに計算根拠を、表示から外した案にはその理由も残すようにしました」
玲央は案件資料の来歴欄を開いた。
記載は三行だけだった。
[案件資料/来歴]
国際AI公共基盤投資枠・継続案件
初期開発主体・インド側国際研究チーム
現工程・日本重要インフラ向け長期検証
玲央が、国際投資枠の行を指した。
「この国際投資枠の関与は、資金提供だけですね」
ラーフルが答えた。
「はい。設計したのはインド側のチームです。現地導入を決めた組織も別です。
出資者に現在の技術判断を下す権限はありません」
玲央は続けた。
「では、なぜ負担先まで必ず表示する設計にしたんです」
ラーフルは、制御卓脇の独立監査端末へ左手を置いた。
端末は四十八案の計算結果と、表示選別の理由を上書き不能で残す。
「市場が動き続けた。それだけを成功とは呼べなかったからです」
それ以上は話さなかった。
玲央は画面へ視線を戻した。
緑の介入案は、必要な売却を期限までに終えられない危険を下げる。
その代わり、匿名化された多数の小口口座が、先に強制決済される。




