第16話 義体を動かす悪魔(三)
エリカはスマートフォンに、新しい試験条件のメモを開いた。
「次の試験条件を決めます」
エリカは、条件を一つずつ打ち込んだ。
予測制御は外す。身体状態を読み取る設定と安全回路の制限値は、前日の試験開始時へ戻し、試験中は変更しない。
SOMA-1の身体地図に登録するのは、装着中の右義手だけ。
右義手は、残存前腕から有効な信号が届いた時だけ駆動させる。入力時刻と実際の駆動は、独立記録器にも残す。
牧野が言った。
「機械の設定を変えても、グラシャとの契約は残ります。
次の試験では右義手を動かすことを許さないと、グラシャにも伝えてください」
エリカは、共有面に立つグラシャを見た。
「次の試験では、あなたが私の右義手を動かすことを許可しない」
「最後のホールドを逃すぞ」
「それも、私の結果です」
「会社もスポンサーも、認証費用を払わない」
「それも、私の選択です」
グラシャは、借りたレナの声で言った。
「私なら、掴ませられる」
エリカは、その顔から目をそらさなかった。
「レナは、私の代わりに登らなかった」
その日の午後、エリカは会社とスポンサーへ、提案を辞退すると返信した。
◇
再試験は翌朝、同じ低い計測壁で行われた。
目的は、最高記録を出し直すことではない。
右義手が本人入力より先に動かず、指を開く本人入力を受けて開くかを、独立記録で確かめる。
会社の試験担当とは別のビレイヤーが安全索を引いた。
久瀬は、頭上の免荷器が体重を受け始める荷重を確かめた。
床のマットは前日より厚い。
右義手の荷重制限クラッチは設定値を超えれば滑り、電源を切っても機械解放で指を開けられる。
エリカは安全索を引いて接続を確かめ、右義手へ試験荷重をかけてクラッチを滑らせた。
電源を切り、機械解放で五指が開くところまで自分で確かめた。
久瀬が設定を順に読み上げた。
「予測制御は使わない。身体状態を読み取る設定と、安全回路の制限値は固定。
身体地図は、現在の右義手だけ。残存前腕から有効な信号が来るまで、駆動は許可しない。
入力時刻と実駆動は、独立記録器にも残す。
義手制御から独立した緊急停止も、私たち安全担当が作動できます」
エリカが答えた。
「私の入力を通さずに右義手を動かすことは、許可しません」
レナの顔をしたグラシャが、エリカにだけ見える姿で壁際に現れた。
黒い姿は、何も言わなかった。
エリカは黄色いホールドを見上げた。
「始めます」
エリカは、最初のホールドを取った。
登りは、前日より明らかに遅かった。
左手で次を取り、両足を置き直す。右腕を伸ばしてから、義手の指が閉じる。
右義手は、エリカの重心移動を追い越さない。
残存前腕から有効な信号が届き、安全回路が許可を出して、ようやく動く。
独立記録器にも、入力、許可、駆動の順に時刻が残った。
一手ごとに、待つ時間があった。
壁の中央を越えた。
最後は、前日の最高記録でつかんだ黄色いホールドだった。
エリカは腰を落とし、右足を蹴った。
身体が浮く。
右腕を伸ばす。
黒い指は、黄色いホールドへ届く直前でようやく閉じ始めた。
遅い。
指先がホールドの縁をこすり、そのまま外れた。
支えを失った身体が、壁から落ちた。
免荷器と安全索がすぐに体重を受け、エリカは床へ届く前に宙づりになった。
右義手は、空中で閉じたままだった。
「開け!」
叫ぶのと同時に、エリカは残存前腕の筋肉を、指を開く時のように動かした。
独立記録器に本人入力の時刻が刻まれ、その後で右義手が力を抜き、五指を開いた。
エリカは安全索に吊られたまま、開いた右手を見た。
壁下の計測画面に、結果が出た。
[試験結果]
最終ホールド:未保持
本人入力前の駆動:なし
指を開く本人入力:検出
入力後の指開き:完了
久瀬が表示を読み上げた。
「登攀は失敗です」
「はい。もう一回」
久瀬が制した。
「今日はここまでです。義手と安全索を点検してから、次を決めます」
レナは、攻略法を先に言わなかった。
予定外の一本を頼んでも、安全の手順だけは譲らなかった。
エリカは床へ降りた。
「では、次の試験日を取ります」
◇
その日のうちに、会社とスポンサーから正式な通知が届いた。
装備認証費用の負担は保留。
復帰選考会と招待大会への推薦も保留。
次世代義手の製品発表から、責任設計者としてのエリカの名前が外れた。
通知には、昨日のタイムと映像を開発実績から外したためだとあった。
保留と氏名の削除は、本人入力より先に義手を動かさない設定で、安全評価をやり直す間の措置だった。
永久措置とは書かれていない。
だが、安全評価後に保留を解き、名前を戻すとも書かれていなかった。
エリカは通知を閉じ、スマートフォンを右義手へ持ち替えた。
黒い指は、残存前腕の信号を待ってから閉じた。
速くはなかった。
それでも、持つのも離すのも、エリカが決めてから動く手だった。
◇
夜、エリカは玲央とのVEILへ、短いメッセージを一通送った。
「今後、義体の制御や停止、戻ってくる感覚について、
私に話を聞きたいという依頼が来たら、まず依頼があったことだけ知らせてください。
引き受けるかどうかは、一件ごとに私が決めます」
玲央はVEILを閉じ、自宅の机に置いた会社の業務端末へ戻った。
エリカとの相談とは別に、合同安全評価の次の案件が届いていた。
案件番号は`市場-01`。
概要欄には、四十八通りの市場介入案を比較するとだけ記されていた。
玲央がその概要を自宅のHoloDock miniへ共有すると、部屋着姿のアゼルは赤い目を上げた。
「今度は、選ばなかった未来まで覗くの?」
玲央は首を横に振り、目的欄を開いた。
「未来を当てるんじゃない。同じ市場の状態に四十八通りの介入を試して、選ばなかった結果まで比べる装置だ」
アゼルの赤い目が細くなった。
「四十八通りのうち、どれを人間に見せるかは、誰が決めるの?」




