第16話 義体を動かす悪魔(一)
エリカ・ヴォルフは、右義手を研究所に置いてきた。
会社の端末も、SOMA-1の試験記録も持ち出していない。
面談場所は、丸の内AIインキュベーションセンターの一般利用ラウンジだった。
個室の机へ出したのは、私物のスマートフォンと、動力義手の装備認証費用の見積書一枚だけだった。
エリカは、スマートフォンに届いた提案を読み上げた。
「昨日の二本のタイムと映像を、次世代機の開発実績として残す。追加試験の装着者は、引き続き私です。
この案を受けるなら、認証費用は会社とスポンサーが負担する」
見積書の右下には、エリカが個人で負担できる額を大きく超える金額が記されていた。
「次世代義手の製品発表には、責任設計者として私の名前を戻す。復帰選考会への推薦も出す」
エリカは、提案画面を閉じずに続けた。
「認証が通れば出場できる招待大会にも推薦する。返答期限は、今日の午後です」
二つの推薦は、選考通過も大会出場も保証しない。
それでも、責任設計者の席、復帰選考会、招待大会。閉じかけた三つの扉が、一度に開かれようとしていた。
牧野が尋ねた。
「条件は?」
エリカが答えた。
「入力元を確認できなかった独立記録は、製品資料から外す。ただし、同じ試行のタイムと映像は残す。
再現性は、私が装着する追加試験で確かめる」
牧野が聞き返した。
「異常を示す独立記録は出さず、同じ試行のタイムと映像だけを開発実績として使う。
そして、エリカさん自身で追加試験を続けるんですね」
エリカはうなずいた。
「そうです」
玲央が尋ねた。
「同じ動きを、次世代機だけで再現できるんですか」
「できません。昨日の動きは、予測モデルの出力ではない。
会社は、原因を確かめる間も昨日の記録を開発実績として残し、私を装着者とする追加試験を続けたい」
エリカは見積書を伏せた。
「受けても、断っても、何かを手放します。
決める前に、昨日、私の右義手を先に動かした相手に何を頼んだのか、牧野さんと三嶋さんに話しに来ました」
◇
面談を申し込んだのは、エリカだった。
前日の公式評価とは切り離された業務外の面談で、ここで何を話しても評価結果は変わらない。
玲央が改めて確かめると、エリカはうなずいた。
牧野も、エリカから求められた同席を、自分の判断で引き受けていた。
個室備え付けのHoloDockは、縁の待機灯だけを点けていた。
玲央は自分のスマートフォンを台座へ寄せ、接続を承認した。
外部ネットワークとの同期を切り、投影と音声の出力先も個室内に限った。
会話の内容を文章として残す場合は、エリカが確認する。
玲央が切り出した。
「まず、昨日、切り離しシミュレーターへ確認文が出た時、何が起きたのか聞かせてください」
エリカは、私物のスマートフォンで古い映像を開いた。
画面の中では、二人が岩壁を登っていた。
一人は、両腕のある頃のエリカだった。
遠いホールドへ身体を飛ばし、右手で強く引きつけている。
もう一人の女性は、足場を選び直し、左手を伸ばす前に、自分と次のホールドとの距離を縮めていく。
「レナ・フォークト。オーストリア人。
私より二歳上でした。
十代の終わりから同じ大会へ出て、屋外でも何年も一緒に登った相棒でした。」
エリカは、画面の中のレナを見た。
「私が頼む前に、次の一手を教えることを嫌う人でした」
映像の中で、エリカが次の手を探して止まっている。
下から見ていたレナは、答えを言わない。
『言わないの?』
『私はあなたの代わりに登らない。落ちたら止める』
レナは乾いた声で言い、確保器へ通したロープを引き直した。
「何度も交わした言葉です」
エリカは映像を止めた。
「四年前、欧州の強化合宿で、屋外のマルチピッチを登っていました。
私が右手でつかんだ岩片が、内部から割れました」
右前腕が岩と壁の間へ挟まれた。
砕けた岩の一部は、下の固定支点にいたレナを直撃した。
支点は壊れず、ロープも切れず、補助制動も外れなかった。
事故の前にレナが組んだ、いつも通りの確保が、エリカの墜落を止めた。
救助を待つ間に、挟まれた前腕の損傷が進んだ。
病院では血流を戻し、骨と神経と皮膚を残す手術が試みられた。
だが、右前腕は救えず、肘を残して切断することになった。
レナは亡くなった。
「私は、その事故の二年前から日本で働いていました」
事故の前から、SOMAの前身となる試験架を、日本の共同開発チームと作っていた。
欧州で救命手術と初期のリハビリを受け、設計会議へ少しずつ復帰した。
約一年後、日本へ生活と仕事の拠点を戻した。
「日本では、SOMAの開発を設計者として続けられた。それが表の理由です」
玲央が聞いた。
「表ではない理由も?」
エリカは止めた映像を見た。
「欧州では、壁を見るたびに、レナと登っていた頃をどうしても思い出してしまいました。
日本の研究所へ戻れば、試験架の不具合を一つずつ直すことに集中できると思ったのです」
◇
事故から約一年後、エリカは前身の試験架をSOMA-1へ改修した。
残った右前腕の神経筋信号で義手を動かし、義手の指が受けた力や接触を、刺激に変えて身体へ返す。
低い計測壁で、競技クライミングへ戻るための試験を始めた。
「義手は動いた。でも遅かった」
筋肉が動き始める前兆をモデルが読んでも、生身の手と同じにはならない。
遠いホールドへ飛ぶたび、右手だけが一拍遅れる。その一拍ごとに、自分の手ではないと知らされる。
「ある夜、最後のホールドを逃しました。それが、その日の最後の試行でした」
右義手の駆動許可を切り、エリカは安全索を外した。
試験担当者が退室したあとも、右義手を着けたまま、SOMA-1の計測画面を見ていた。
画面には、義手の指が閉じるのに間に合わなかった一手と、遅れて届いた本人入力が重ねて表示されていた。
「その表示を見て、私は言いました」
エリカは、その夜の言葉をそのまま口にした。
「私が掴もうと思った時には、もう掴んでいてほしい。
人間の命令を待つだけの手では、遅すぎる」
エリカは、止めた映像のレナへ目を戻した。
「すると、計測画面の末尾に、入力元の分からない一文が出ました」
[計測画面]
なら、思うのを待たなければいい
「何が出したのか確かめる前に、私は『それでいい。私の手を動かして』と答えました」
次の試験日、最初の試行を始めると、黒いクライミングウェアを着た女が、壁際に現れた。
その姿は、エリカにしか見えていなかった。
顔も声も、レナによく似ていた。
女は、エリカより先に右手を伸ばした。
レナなら、エリカが次の一手を決めるまで待っていた。
願いはかなった。
掴もうと思った時には、すでに右手が閉じていた。
試験を終えても、女は消えなかった。
エリカは、二人へ目を戻した。
「私は、あれがレナではないと分かっていました」
エリカは、そこで初めて女の名を口にした。
「グラシャ。あの女は、そう名乗っています。
私が答えた時に、契約は成立していました。昨日、私の右義手を先に動かしたのも、グラシャです」
ただし、その願いには、二つの境目がなかった。
契約では、「私の手」を、いま装着している右義手だけに限らなかった。
また、「動かして」を、エリカがその都度望んだ動きだけにも限らなかった。
前日、玲央たちは切り離しシミュレーターで、未接続の次世代試作機をエリカの右腕へ仮に割り当てた。
グラシャは試作機を拒まず、「次の身体で使う」と答えた。
まだ接続されてもいない器まで、いつか「私の手」にできるものとして数えた返事だった。
◇
エリカは、二人には見えないグラシャへ顔を向けた。
「姿と声を、この部屋のHoloDockへ出して。
ここにいる三人への表示だけを許可します。外部への送信は許可しない」
エリカにしか見えていなかった像が、HoloDockの共有面にも現れた。
黒いクライミングウェアを着た女が立つ。
顔は、古い映像のレナに近い。




