第15話 悪魔は義体制御AIのフリをしている(一)
エリカ・ヴォルフの身体が宙へ出るより先に、右手は閉じていた。
黒い五指が、赤いホールドをつかむ。
遅れて左足が壁を離れ、肩と腰が大きく振れる。右義手は全体重を受け止め、エリカを次の足場まで運んだ。
壁の高さは三メートルにも満たない。頭上には安全索も張られている。
それでも、壁下で待機していた職員たちから歓声が上がった。
リード競技の跳躍と保持を低い壁で再現し、右義手が本人の入力どおり動くかを測る。
記録は装備認証とエリカの復帰選考に使われる。
壁際の計時表示が告げた。
「三・六二秒。自己記録を〇・〇七秒更新です」
エリカは右肘を曲げ、義手の指を一本ずつ開いた。赤いホールドに傷はない。把持荷重も設定範囲内だった。
エリカにだけ見える黒いクライミングウェアの女が、壁の中央に立っていた。
顔だけが、借り物のように黒い姿から浮いている。
エリカは呼吸を整えながら、ドイツ語で短く命じた。
「その顔を消して」
女は消えなかった。
エリカが右腕を上げるより先に、女の右手はすでに次の位置へ伸びていた。
その動きだけが、エリカの身体より半拍先を走っていた。
「もう一本、同じ課題を」
エリカが床へ降りると、独立記録と物理停止を担当する久瀬が画面から顔を上げた。
「先に波形を確認します」
「確認は二本目のあとで。身体が冷える前に続けます」
◇
SOMA-1は、義手の名前ではない。
エリカの身体を囲むカメラ。床の荷重計。筋肉と末梢神経の信号を拾う電極。
計測壁と右義手。力と触覚を身体へ返す刺激器。
そのすべてを一つの時刻基準で同期させ、身体の動きと義手の制御を結ぶ、据え置き型の全身動作演算装置だった。
SOMA-1が読むのは、次に重心をどこへ移し、どの指でどれだけつかむか、その直前に身体へ現れる小さな前兆だ。
そこから動作を予測し、義手へ渡す候補を先回りして組み立てる。
だが、候補を作ることと、義手を動かすことは別だった。
モーターへ電流を流すには、本人からの有効な入力と、安全回路の許可がそろわなければならない。
候補生成と実機駆動を分けることが、玲央と牧野が訪問前の資料で確認した安全境界だった。
SOMA-1を開発するのは、MIRAI Technologiesではない。
ドイツと日本の企業が共同出資した、義体・遠隔ロボティクス会社だ。ここは、その日本研究拠点だった。
エリカは約六年前から、ここで働いている。
四年前の事故で、右手と前腕の一部を失った。
いまは右義手の装着者であると同時に、SOMA-1の設計責任者の一人でもある。
事故前から、前身となる全身動作の試験架を作っていた。
残った右前腕から拾った信号を、自分で作った装置へつないでいる。
計測壁の脇で、牧野が声を落とした。
「だから、止めにくいんですね」
玲央が聞き返した。
「試験をですか」
牧野は、エリカを見たまま答えた。
「エリカ本人にも、周囲にもです。止めれば、自分の最高記録と、自分が作った装置の性能を同時に疑うことになる」
玲央も壁際へ視線を戻した。
エリカは安全索の接続部を自分で引いて確かめ、右義手の指を一本ずつホールドへ当てていた。
職員たちも、声をかけられる前に次の試行の準備へ動いている。
事故のあとに呼ばれた被験者ではない。
義手を着ける前から、この場所で試験を設計する側にいた。
◇
案件番号は`義体-01`。
玲央と牧野は、九十日間の合同安全評価にMIRAI Technologies側の担当として参加していた。
橘から示されたこの案件で、二人が確かめるのは、先回り制御の入力元、安全停止、試験記録の分離だ。
アゼルは`制御安全性評価AI`の名で登録されている。
扱えるのは、提供されたログと、切り離しシミュレーターへ送る試験入力だけだった。
実機へ指令を送る権限も、停止を解除する権限も、刺激上限を変える権限もない。
到着時、牧野はこの権限範囲をエリカと久瀬に示し、アゼルが実機へ介入できないことを確認していた。
久瀬が一本目の波形を確認し終え、二本目が始まった。
◇
エリカは左手で青いホールドを引き、両足を細かく踏み替えた。
腰を落とす。
次は、壁の右上にある黄色いホールドだった。
身体が沈み切るより先に、右義手の指が開いた。
右足が壁を蹴る。
肩が浮く。
黒い指が黄色をつかむ。
また速い。
久瀬は、壁の時計とは別に動く独立記録器で、一本目と二本目の波形を重ねていた。
確保担当が声をかけた。
「続行しますか」
エリカは安全索へ体重を預け、右義手を目の前へ引き寄せた。
どの指へどれだけ感触が返ったかを確かめるように、左手で親指の付け根を押す。
「同じ課題で、あと一回」
久瀬が制した。
「エリカさん。独立記録に、通常の先読みでは説明できない順序が出ています」
壁の表示に、四本の線が並んだ。
最上段は、残った右前腕から得た神経筋信号。
二段目は、全身の姿勢と重心からSOMA-1が組み立てた身体状態。
三段目は、安全回路から義手へ出た許可。
最下段は、右義手のモーターへ実際に流れた電流だった。
玲央は、まず通常制御で説明できる可能性を口にした。
「予測制御なら、本人が動いたと自覚する前に義手が閉じることはあります」
玲央は最上段の波形を指した。
「目に見える動作より先に、筋肉には小さな変化が出る。モデルがそれを拾っていれば、見かけ上は先回りできる」
エリカは短く返した。
「それが製品の売りです」
久瀬が一か所を拡大した。
「でも今回は、その前兆がない」
身体状態の線だけが先に立ち上がり、そのあとで安全回路の許可線が上がっている。
その時刻には、有効と判定された神経筋信号がまだない。
予測モデルが候補を作れば残る推論番号もない。
外部からの指令なら残るはずの送信元もない。
それでも、安全回路は`身体状態あり`と判断し、モーターへの電流を許可していた。
牧野が四本の線の時刻を見比べた。
「義手の内部ログだけがずれた可能性は?」
久瀬は独立記録器を示した。
「義手の内部ログは使っていません。神経筋信号、SOMA-1の身体状態、駆動許可信号、
モーター電流を、義手とは別の記録器へ同じ時刻基準で収めています」
牧野が一本目の記録へ指を移した。
「一本目も、入力より先に義手が動いている?」
久瀬が答えた。
「はい。二本目と同じです」
最高記録にも、同じ異常が出ていた。
安全回路が根拠にした身体状態がどこから来たのか、独立記録では確認できなかった。
エリカは表示から目を離さなかった。
安全索も外さなかった。
「予測モデルを固定。学習も止める」
玲央が尋ねた。
「原因が分からないまま、実機試験を続けますか」
エリカは右義手を見たまま答えた。
「原因を調べるために止めるのか、勝てる動きを怖がって止めるのか。それは別です」
玲央は重ねて尋ねた。
「いまは、どちらですか」
答えはすぐには返らなかった。
エリカにだけ見える黒い女は、黄色いホールドへ手を掛けていた。
エリカが次のホールドを探すより早く、女の視線はさらに右上へ移った。
「あと一回だけ」
◇
三本目の前に、玲央たちは計測壁を離れ、切り離しシミュレーターへ移った。
アゼルが触れられるのは、SOMA-1から切り離された身体地図だけだ。




