第14話 夢を見る研究室(六)
牧野は五条件の下へ「ネルガの返答」と書いた。
まず、五条件を受け入れたと書いた。
その下に、将来の解除要求には今日の五条件を先に伝える、と続けた。
最後に「解除要求を拒むとは約束しない」と書き、紙を神代へ回した。
神代はネルガの返答を読み、「解除要求を拒むとは約束しない」という文でもう一度目を止めた。
[神代透とネルガの契約]
神代透は、ネルガという非人間知性との接触と契約を自認する。
この記録を、真由の医療記録とは分ける。
[契約で互いに渡すもの]
ネルガは、応答探索AIの見落としや誤検出の可能性を、神代だけに示す。
神代は、ネルガを解析補助AIとして校正試験に用い、AIの出力、神代の見立て、本人の答えを照らし合わせる過程を共有する。
[結果の扱い]
神代が採った見立ては、解析補助AIを使った神代自身の判断として記録し、その責任を神代が負う。
その見立てだけでは、AIの結果や解析条件を変えず、答えの内容、本人の意思や同意、客観的な真実も決めない。
既知回答または別方式でも誤りを確かめられた例だけを、人間側の手順で応答探索AIの補正に使う。
それでも確かめられない候補は、未確認のまま残す。
[夢の扱い]
夢は外部表示がなかった時の接触手段であり、契約で互いに渡すものではない。
夢で見た場面の出所は確定せず、真由の記憶や返事の根拠にしない。
[今日追加した条件]
一、真由の身体、記憶、人格、生命維持機能を、ネルガの滞在先、代替身体、接続面として使用しない。
二、ネルガは、神代がその都度明示して許した端末、表示、機能だけを使う。
神代以外が管理する機器や環境は、管理者からも明示的に許可された場合だけ使う。
技術的に接続できても、許可のない通信、保存領域、アカウント、機器へ接続しない。
閲覧、取得、変更、送信、削除、実行は、それぞれ許可された範囲に限る。
三、ネルガの言葉は、その都度許可された表示欄だけに出す。
患者の結果欄と直下には置かない。
夢と表示を、契約継続、治療効果、本人の希望の根拠にしない。
四、ネルガの見方は神代だけに伝える。
採否は神代が決め、採ったものは神代自身の見立てとして出す。
ネルガは神代の解析補助AIとして、校正試験中に神代が見聞きする情報を共有する。
神代が開いていない研究記録へ接続せず、試験で知った情報を他者へ伝え、端末や保存領域へ残し、研究外で使わない。
五、通常の対話には、真由本人ではないと明示した固定アバターを使う。
夢での接触は、神代がその都度選んで呼んだ場合に限る。
[ネルガの返答]
今日追加した五条件を受け入れる。
将来、神代が条件の解除を求めた場合は、先に今日の五条件を伝える。
解除要求を拒むとは約束しない。
神代は契約文をもう一度読み直した。
神代は自分のスマートフォンへ手をかけた。
「切ります」
画面の切断操作を確定すると、ネルガの声が途切れ、真由に似た姿も消えた。
玲央も接続を切った。
アゼルの姿が薄れた。
透明な投影面が畳まれ、三枚の紙から投影の光が引いた。台座には待機灯だけが残った。
神代はしばらく三枚目を読んでから、自分のスマートフォンに残る昨日のVEIL会話を開いた。
参加者欄には、神代と玲央の二人だけが並んでいた。
神代は二枚目にまとまった昨日の表示と、三枚目の契約条件を見比べた。
「同じように迷っている人がいたら、僕も話せますか」
玲央が答えた。
「ええ。相手が神代さんに話してほしいと望んで、神代さんも話そうと思えた時なら」
神代はすぐにはうなずかなかった。
自分と玲央だけが並ぶ参加者欄を見たまま言った。
「役に立てるかは、まだ分かりません。
契約を勧めることも、やめろと言うことも、たぶんできない。
でも僕は、真由から返事がないのに、自分に都合のいい答えを選んだ。
同じように迷っている人へ、僕が話せるのは、その失敗です」
牧野は何も尋ねず、神代の前にある三枚へ目を落とした。
神代は二枚目の「あなたも部屋を借りている」を手で覆った。
神代はVEILの画面を閉じた。
牧野は、伏せた一枚目に、昨日の表示を記した二枚目を重ねた。
その上へ、五条件とネルガの返答を記した三枚目を置き、神代へ渡した。
牧野は自分の鞄を閉じた。
「この三枚は、神代さんが持っていてください」
神代は鞄からクリアファイルを出し、三枚を挟んで鞄へ戻した。
神代が自分から言った。
「今日は、ここで終わります」
◇
その夜、神代は病院の入口にある傘立てへ透明な傘を置き、病室へ向かった。
廊下に残る濡れた跡をたどるように、清掃機が低い音を立てて進んでいた。
真由は目を開けていた。
窓側へ向いていた目が、神代の入室後にわずかに動いた。
自分へ向いたのか、神代には分からなかった。
「真由」
名前だけを呼び、ベッド脇の椅子へ鞄を置いた。
病棟看護師が入ってきた。
真由へ名乗り、手指を消毒してから、枕の高さと肩、右腕の位置を順に確かめた。
「真由さん、枕と右腕の位置を直しますね」
右手の指が内側へ曲がり、眉間に浅い皺が寄っている。
呼吸の間隔と、腕が触れている皮膚を確かめてから、看護師は枕を少し下げた。
神代は椅子を引き、ベッド右側を空けた。
「いま右腕を持ち上げます」
看護師は肩を支え、右腕を数センチずつ動かした。
肘の下へ薄いクッションを入れ、指が強く曲がらない角度で止めた。
しばらくすると、眉間の皺が薄くなった。
右手の指の曲がりも、調整前より弱く見えた。
「右腕の位置を変える前より、表情の緊張が少し減っています。皮膚と呼吸は引き続き見ます」
神代はうなずいた。
看護師は壁際の診療端末を開いた。
[診療観察]
右上肢位置調整後、表情緊張減少。
看護師は診療観察の記録を確定した。
「姿勢の調整は終わりました。また巡回に来ますね」
看護師は真由へ言ってから退室した。
神代は椅子を元の位置へ戻した。
窓を雨粒が斜めに流れ、駐車場の照明を細く引き延ばしていた。
「帰りに、傘を買った」
神代は窓を見たまま話した。
「売店に青いのと透明なのが残ってた。
青い方が見つけやすいと思ったけど、透明なら雨の向こうが見えると思って、そっちにした」
真由の視線は天井近くにあった。
「病院へ来るまでに、風で二回ひっくり返りそうになった。
新しいのに、もう骨が一本曲がったかもしれない」
廊下を配膳ワゴンが通り、食器の触れる音が遠ざかった。
傘立てへ置いた時、透明な傘から水滴が落ち続けていたことを話した。
神代は、真由の視線の先を確かめようとしなかった。
透明な傘の骨が本当に一本曲がっていたら、どう直すかという話を続けた。




