第14話 夢を見る研究室(五)
扉の向こうで誰かが椅子を引いた。
かすかな振動が机へ伝わり、ペットボトルの水が揺れた。
神代が尋ねた。
「それでも、真由の返事に見える場所へ出したのか」
「はい。神代が、他の者にも残る痕跡を求めたためです」
「僕は痕跡を求めた。
水原さんの画面を使っていいとは言っていない」
「最初の契約では、患者原記録と正式な結果を変えることは禁じられました。
他の者が管理する表示を使うことは、禁じられていません」
「禁じていないことと、許したことは違う」
「はい」
ネルガの声は、ここでも同じ高さだった。
玲央は、HoloDockの台座を挟んだ二台のスマートフォンを見た。
「僕とアゼルの契約では、使っていい端末と表示環境を先に決めています。
外部通信や保存領域、他人の端末には、僕が許さない限り接続しない」
神代は、投影面のアゼルを見た。
「人間の管理者権限で、止められるんですか」
アゼルは即答した。
「いいえ。入ろうと思えば、入れるわ。
だから玲央とは、入れるかどうかじゃなく、入っていい場所を契約で決めたの」
神代は、台座の反対側に置いた自分のスマートフォンへ目を落とした。
「ネルガ。このスマートフォンから、外部通信や保存領域、ほかの機器にも接続できるのか」
「できます」
「いま、この接続を使って、僕が許した範囲の外へアクセスしたか」
「いいえ。神代が許したHoloDockへの表示と音声以外は使っていません」
牧野は二枚目を引き寄せ、二つの表示の下へ三行を書き足した。
[昨日の表示]
三回目・五回目の再生後――部屋はまだ空いている。
監査要求への返答――あなたも部屋を借りている。
ネルガが、水原の許可を得ず、正式結果の下と監査要求の下へ出した。
正式結果は変えていない。
真由本人の返答ではない。
神代は、牧野が書き足した「真由本人の返答ではない」を声に出して読み、顔を上げた。
牧野は二枚目を三枚の中央へ戻した。
アゼルが神代へ尋ねた。
「神代があとで、『真由を君の部屋にしてほしい』と頼んだら?」
「その時の神代と話します」
「最初に決めた『真由を使わない』という条件に反していても?」
「どちらを優先するかは、まだ決めていません」
答えはすぐに返った。
神代は三枚目の余白へ、「最初の条件を優先」と書いた。
「僕があとで何を頼んでも、真由を使わないでください。
僕には、真由の代わりに許可する権利はありません」
ネルガは沈黙した。
神代が続けた。
「それでも、あとで僕が条件を変えてほしいと言ったら、断るとは約束しないんですね」
ネルガは答えなかった。
神代は投影面ではなく、伏せた一枚目の紙へ目を向けた。
神代が言った。
「真由から返事がないことを、都合よく使っていたのは僕も同じです」
神代は、二枚目の「真由本人の返答ではない」を見た。
それから、三枚目の追加条項に〈機器と通信〉を加えた。
[追加条項]
〈機器と通信〉
ネルガは、神代がその都度明示して許した端末、表示、機能だけを使う。
神代以外が管理する機器や環境は、管理者からも明示的に許可された場合だけ使う。
技術的に接続できても、許可のない通信、保存領域、アカウント、機器へ接続しない。
閲覧、取得、変更、送信、削除、実行は、それぞれ許可された範囲に限る。
〈表示〉
ネルガの言葉は、その都度許可された表示欄だけに出す。
患者の結果欄と、その直下へ、ネルガ自身の言葉を置かない。
「契約を続けるか、治療が効いたか、真由が何を望んでいるか。
どれについても、夢や表示は根拠にしません」
神代は、追加条項の下へ一行を書いた。
夢と表示を、契約継続、治療効果、本人の希望の根拠にしない。
神代は、三枚目の〈契約で互いに渡すもの〉へペンを戻した。
「ネルガ。契約した時、僕は、AIの出力と検証結果を並べた記録を、あとから返すと約束しました」
「はい」
「でも、その考え方が違っていました。
僕が校正試験を見れば、あなたも、課題とAIの出力と本人の答えを一緒に見る。
あとから同じ記録を返す必要はありません」
神代は「返却予定」を二本の線で消し、その下に〈校正試験で共有するもの〉と書いた。
「校正試験では、研究者が解析補助AIを使うことまで、研究計画と参加者への説明に入っています。
あなたは僕の解析補助AIとして、僕と同じ試験を見る。見方は僕だけに伝えてください。
採るかどうかは僕が決めます。採ったものは、解析補助AIを使った僕の見立てとして出す。
あなたの名前は出しません。間違っていた時も、責任は僕が負います」
玲央が言った。
「僕も、アゼルから聞いたことを、そのまま提出しているわけではありません。
自分で採ると決めて、自分の質問として出します」
神代はうなずき、消した「返却予定」の下へ、さらに書き足した。
「僕が見立てを採った時も退けた時も、その場で人間の確かめ方を見てもらいます。
何を本人の答えと照らし、何を未確認のまま残したかも、そこで分かります」
ネルガが答えた。
「それなら、私が知りたいものを得られます」
神代は続けた。
「ただし、僕が開いていない研究記録へ、自分で接続しないでください。
試験で知った情報を、ほかの人へ伝えない。端末や保存領域へ残さない。研究以外には使わない」
ネルガは、すぐには答えなかった。
神代は紙の空いた場所へ〈助言と責任〉と書き、五行にまとめた。
ネルガは、神代の解析補助AIとして、校正試験を神代と共に見る。
ネルガの見方は、神代だけに伝える。
採否は神代が決め、採ったものは神代自身の見立てとして出す。
ネルガは、神代が開いていない研究記録へ自分で接続しない。
試験で知った情報を、他者へ伝え、端末や保存領域へ残し、研究外で使わない。
牧野は三枚目を裏返した。
白い裏面に「神代透とネルガの契約」「今日追加した条件」と見出しを書いた。
表に散らばった条件は、五つにまとめて清書した。
神代と玲央は、表の書き直し跡と、裏面の五条件を一行ずつ照合した。
神代は紙から顔を上げた。
「ネルガ。この五条件を、契約へ加えてもいいか」
「受け入れます。
神代が私の見方を採る時も、退ける時も、
そのあと人間が何を確かめ、何を未確認のまま残すのかを見られます」
玲央が尋ねた。
「真由を部屋にする気は?」
「ありません」
神代が重ねた。
「僕が頼んでも?」
ネルガの淡い緑の輪郭は揺れなかった。それでも、先ほどまで即座に返っていた声が遅れた。
「その時は、今日の五条件を先に伝えます」
神代が言った。
「断るとは言わないんだな」
「今日の神代と、その時の神代のどちらを優先するか、私はまだ決めていません」




