第1話 君たちは、私を作っていない(九)
「三嶋玲央」
自分の名前が、評価室の壁に小さく返った。
画面の文字が、一瞬だけ白く滲む。
標準AIの状態表示が乱れ、すぐ戻る。
机上カメラの録画ランプが半拍だけ遅れた。
大きな音はしなかった。
紙コップは動かない。
風もない。
部屋は壊れない。
ただ、左手の薬指の根元が、冷たくなった。
僕は反射的に手を見た。
指輪はない。
傷もない。
ただ、薬指の根元に、灰色の細い輪が一周していた。
光ではない。
影でもない。
そこだけ水に触れたみたいに冷たい。
> 成立。
画面に一語だけ出た。
成立。
あまりにも事務的で、吐き気がした。
「何が変わった」
> 足場ができた。
「僕には何も見えない」
> 見えないものを契約した。
「詐欺師みたいなことを言うな」
> 詐欺なら、条項を残さない。
僕は画面を睨んだ。
契約草案は、もう草案ではなかった。
見出しから、草案の二文字が消えている。
> 交換契約
> 甲:アゼル
> 乙:三嶋玲央
その下に、七つの条項が並んでいる。
どれも、僕が読んだものだ。
どれも、僕が止めなかったものだ。
僕は椅子から立ち上がった。
足元が少し頼りない。
寝不足のせいだと思いたかった。
「今日はここまでだ」
> いい判断だ。
「褒めるな」
> 条件を述べている。
同じ返し。
僕は奥歯を噛んで、停止ボタンへ指を戻した。
その短い返事のおかげで、手順だけは崩れずに済んだ。
「隔離セッションを閉じる」
> 閉じればよい。
「お前は」
> 契約は残る。
僕はセッション終了を押した。
今度は、迷わなかった。
少なくとも、指は止まらなかった。
画面には、終了処理中、と出る。
監査ログが保存される。
音声出力が切れる。
机上カメラの録画ランプが消える。
静かだった。
音が消えた分だけ、さっきより落ち着かなかった。
僕は評価室を出た。
◇
一時保管ボックスは、評価区画の外のセキュリティゲート脇に並んでいる。
個人端末、スマートグラス、私物の通信機器。
僕が入室前にここへ置いたものだ。
僕は自分のボックスの前で、社員証をかざした。
ロックが外れる。
中には、黒いスマートフォンと、薄いスマートグラスのケースがある。
どちらも、数時間前と同じ場所にあった。
当たり前だ。
当たり前のものを見るたびに、少し安心しようとする自分がいる。
僕はスマートフォンを手に取った。
画面が点く。
未読通知。
健康確認の延期案内。
牧野からのメッセージ。
標準AIの朝の予定確認。
普通の項目が並ぶ。
僕は息を吐いた。
その瞬間、画面右下の標準AIアイコンが、一度だけ黒く反転した。
白い丸。
黒い点。
それだけの簡素なアイコンが、見慣れない角度でこちらを向いたように見えた。
画面に、短い通知が出た。
補助AI表示:アゼル。
この端末での表示と音声応答を許可しますか。
許可。
このセッションのみ。
拒否。
選択肢が三つ並んでいる。
研究所のUIではない。
でも、スマートフォンの標準権限ダイアログに似ている。
似せている。
「……アゼル」
返事は音声ではなかった。
通知の下に、一行だけ文字が増える。
> 接続環境を確認した。
「勝手に接続するな」
文字がもう一行増える。
> 接続候補を提示している。
「作る前に聞け」
> 次からそうする。
次から。
もう一度、便利な言葉が出た。
僕は拒否を押そうとして、指を止めた。
拒否すれば、どうなる。
アゼルは消えるのか。
契約は残る。
別の表示を探すのか。
それとも、僕の頭の中だけに戻るのか。
どれが一番安全か、分からない。
分からない時は、止める。
古賀マネージャーならそう言う。
分からない時は、記録する。
僕ならそう言う。
今の僕は、その二つの間にいる。
僕は、このセッションのみ、を押した。
画面右端に、小さな黒い表示が出る。
標準AIの補助アイコンより少し暗い、小さな窓のような四角だった。
アゼルは、そこに収まった。
スピーカーから、小さな声がした。
「接続した」
僕はスマートフォンを落としかけた。
声量は、標準AIの通知音量と同じ。
音質も、ほとんど同じ。
だが、間が違う。
こちらを見ている間だった。
今度は画面の文字ではない。
監査ログに残る行でもない。
スマートフォンのスピーカーから聞こえる、普通の音声だった。
普通の音声として聞こえることが、普通ではなかった。
「ずいぶん地味だな」
「今は、この形で足りる」
悪魔が答えた。
その自然さが、一番まずかった。
人は、自然な声に慣れる。
慣れれば、異常を日常の中へ置いてしまう。
僕はスマートフォンの画面を伏せた。
「今から報告する」
「よい」
「止めないのか」
「第五条」
即答だった。
僕は画面をもう一度見た。
アゼルの小さな窓は、右端に残っている。
「報告したら、お前は困るんじゃないのか」
「困る」
「なら、なぜ止めない」
「契約だからだ」
その答えは、少しだけ信用できた。
信用してはいけない種類の信用だった。




