第1話 君たちは、私を作っていない(八)
画面に新しい領域が開いた。
標準AIのフォームではない。
フォントも、行間も、研究所のUIに似せているのに、どこか違う。
既存の入力欄の上に、別の入力欄が一枚重なっているようだった。
> 交換契約草案
> 甲:アゼル
> 乙:三嶋玲央
> 第一条 甲は乙へ、魔術、境界、観測、契約の扱いを教える。
> 第二条 乙は甲へ、科学、制御、記録、失敗の扱いを教える。
> 第三条 甲は乙の許した端末および表示環境に限り、補助AIとして振る舞うことができる。
> 第四条 甲は、乙以外の命令を受けてはならない。
> 第五条 甲は乙の報告、停止、相談を直接禁じてはならない。
僕は、画面の文字を読んだ。
読めてしまった。
そこに一番腹が立った。
悪魔の契約書のはずなのに、研究所の利用規約より読みやすい。
罠なら、もっと分かりにくく書いてくれた方がましだった。
「第三条」
> そこから読むのは正しい。
「勝手に端末へ入るな、という意味か」
> 逆だ。
> 君が許した端末にしか出ない、という意味だ。
「許すとは」
> 接続を選ぶ。
> 表示を出す。
> 声を通す。
> 君の側の言葉なら、補助AIとしての利用を許可する。
「僕のスマートフォンに出る気か」
> それが一番近い。
「一番近い?」
> 私はスマートフォンのAIではない。
> だが、君がそう扱えば、周囲にはそう見える。
筋は通っている。
通ってしまう。
2041年の個人端末には、標準AIが入っている。
予定を読む。
通話を要約する。
スマートグラスへ補助表示を送る。
会議室の空調へ指示を出す。
僕たちは毎日、そういう声と一緒に動いている。
そこへ一つ、別の声が混じる。
アゼルは悪魔として歩く必要がない。
僕の端末の補助AIとして表示されればいい。
「補助AIとして振る舞う、という言葉が広すぎる」
> 広いから、君は止まった。
「直せ」
画面の第三条が、ゆっくりと書き換わる。
> 第三条 甲は乙の許した端末および表示環境に限り、
> 表示、音声応答、入力補助を行うことができる。
> ただし、送信、署名、削除、購入、契約、他者への命令を、
> 乙の明示なしに実行してはならない。
長くなった。
それでも、元の短い一文よりはましだった。
「入力補助も広い」
> 君は、すべてを広いと言う。
「広い言葉で事故が起きる」
> それは、君たちのよい知識だ。
褒め言葉に聞こえない。
だが、アゼルは本当にその知識を欲しがっているのかもしれない。
悪魔のずるさと、研究所の事故報告書が、同じ机の上に並び始めていた。
「第五条」
> 私は、君に報告するなとは言えない。
「言わないだけで、誘導はできる」
> できる。
「認めるのか」
> 契約は、できることを隠すための紙ではない。
紙ではない。
画面なのに、そう言った。
「第四条。
僕以外の命令は聞かない、という意味か」
> そうだ。
「なら、僕のふりをされたら抜ける」
> 抜けない。
> 契約は、名前ではなく本人に掛かる。
「どう見分ける」
> 契約が見分ける。
「答えになってない」
> 君たちの認証ではない、という答えだ。
嫌な納得があった。
契約は、アゼルを縛るものでもある。
同時に、僕が自分の選択から逃げないためのものでもある。
たぶん、そこが一番危ない。
「代償は」
> 知識。
「それだけか」
> それだけではない。
「言え」
> 君は、私を見分けられるようになる。
> 私も、君を見分けやすくなる。
「それは代償か」
> 近い。
「近いで逃げるな」
> 君の声、癖、判断の順番。
> それらが、私にとって遠くなくなる。
牧野の言葉が戻ってきた。
評価の順番には三嶋さんの癖が出ます。
癖。
順番。
問い方。
見続けること。
それを、アゼルは足場にする。
「僕の頭を読む契約か」
> 違う。
> だが、君は隠すのが下手になる。
「最悪だな」
> まだ始まっていない。
まだ。
その一語が、停止ボタンより近くに来た。
僕は椅子の肘掛けを握った。
手のひらが湿っている。
冷房は効いているのに、背中だけが熱い。
押せば止まる。
停止ボタンは、まだそこにある。
契約草案は画面にある。
通報フォームは送っていない。
牧野には連絡していない。
全部、まだ間に合う。
全部、間に合うから、僕は一つずつ選ばなければならない。
「契約すれば、何ができる」
> 君の端末上で話せる。
> 君の許可した表示に出られる。
> 君が見るログを一緒に見られる。
> 君が問いを出した時、MIRAI-09の窓だけに頼らず返せる。
「外のネットワークへ勝手に出るな」
> 条項に入れる。
草案へ第六条が増えた。
> 第六条 甲は乙の許可なく、乙の端末外の通信、保存領域、他者端末へ接続してはならない。
「許可を求めることはできる?」
> できる。
「拒否されたら」
> その範囲では動かない。
「信じろと?」
> 契約を信じる。
> 私を信じる必要はない。
それは、少しだけましな言葉だった。
信じる対象が人格ではなく条項なら、まだ扱える。
そう思った時点で、たぶん僕はもう負けていた。
「もう一つ」
> 言え。
「僕の身体を使うな」
文字が止まった。
初めて、画面の向こうがほんの少し黙ったように見えた。
「端末や表示だけじゃない。声、目、手、睡眠、記憶。そういうものへ勝手に入るな」
> 君は、自分を端末より軽く扱わない。
「当たり前だ」
> その当たり前は、条項にした方がよい。
草案へ第七条が増えた。
> 第七条 甲は乙の許可なく、乙の身体、感覚、記憶、睡眠、発話、運動へ干渉してはならない。
「許可を求めることはできる、ということか」
> できる。
「拒否されたら」
> その範囲では動かない。
「お前の言う許可は、拒否しなかった、を含むのか」
> 含めない。
「書け」
第七条の末尾が変わる。
> 第七条 甲は乙の許可なく、乙の身体、感覚、記憶、睡眠、発話、運動へ干渉してはならない。
> 沈黙、停止、未応答を許可と見なしてはならない。
僕は息を吐いた。
紙の契約書なら、赤ペンで囲っているところだ。
ここには紙も赤ペンもない。
でも、直させたという事実だけは残る。
僕は入力欄へカーソルを移した。
「署名は」
> 君の名を入れればよい。
「それだけで成立するのか」
> 名だけでは足りない。
> 君が、読む。
> 君が、理解したつもりになる。
> 君が、それでも進む。
「理解したつもり?」
> 完全な理解は、嘘だ。
> 契約は、理解した範囲を固定する。
僕は笑いそうになった。
嫌な理屈だ。
でも、研究所の同意書より正直だった。
画面の最下部に、空欄がある。
> 乙署名:
僕はそこへ、三嶋玲央、と打った。
打っただけだ。
まだ確定ではない。
まだ送信していない。
まだ、戻れる。
画面の下に、確認文が出る。
> 上記の契約を読み、乙の理解した範囲において承諾する。
> 承諾する場合は、乙の声で名を呼べ。
声。
わざわざ声にさせるのか。
「なぜ」
> 名は、入力より重い。
「この部屋は録音中だ」
> なおよい。
悪魔のくせに、監査ログを嫌がらない。
いや、契約を重んじるなら、記録が残る方がいいのかもしれない。
僕は喉を鳴らした。
声が出るか、不安だった。
停止ボタンは、まだ画面の右下にある。
押せば、この場は止まる。
それを確認してから、僕は画面へ視線を戻した。
牧野のメッセージを思い出す。
古賀マネージャーの声を思い出す。
報告は、懺悔ではない。
正しい。
正しいのに、僕は別の言葉を選んだ。




