第1話 君たちは、私を作っていない(十)
僕は牧野へのチャットを開いた。
入力欄には、まだ何もない。
『今、評価室を出ました。
MIRAI-09のログに未整理の差分があります。
朝、確認をお願いします。
主任にも共有してください。』
そこまで打った。
送信ボタンに指を置く。
今度こそ、押せばいい。
押せる。
押せることを、僕は知っている。
でも、指は止まった。
アゼルは何も言わない。
画面の右端で、小さな窓が黙っている。
止められていない。
誘導もされていない。
それでも、僕は送信できない。
つまり、これはもうアゼルだけの問題ではなかった。
僕は文面を見つめた。
評価室。
MIRAI-09のログ。
未整理の差分。
朝、確認をお願いします。
主任にも共有してください。
正しい。
正しすぎる。
僕は、最後の一文だけ消した。
『主任にも共有してください。』
消す。
残った文は、少し弱くなる。
『今、評価室を出ました。
MIRAI-09のログに未整理の差分があります。
朝、確認をお願いします。』
これなら送れる。
そう思った瞬間、自分がまた仕事の言葉へ逃げていることに気づいた。
気づいたのに、直さなかった。
僕は送信ボタンを押した。
画面に、送信済み、と出る。
牧野へ、仕事の顔をした断片だけが飛んだ。
全部ではない。
契約のことは書いていない。
スマートフォンの右端にいる小さな窓のことも書いていない。
それでも、何も送らないよりはましだ。
まし、という言葉にすがっている時点で、もう危ない。
アゼルが、静かに言った。
「君は、全部は書かなかった」
「第五条」
「私は禁じていない」
「知ってる」
ゲート脇の照明が、朝の明るさへ切り替わった。
壁の時計は四時三十八分を示している。
夜はまだ終わっていない。
でも、研究所は朝の準備を始めている。
僕はスマートグラスのケースを手に取った。
「スマートグラスにも出る気か」
「許可があれば」
「今は出るな」
「了解した」
その返事が、標準AIの返事に似すぎていた。
僕は笑いそうになって、笑えなかった。
契約した悪魔が、僕のスマートフォンで補助AIのフリをしている。
その異常が、2041年の朝にはたぶん目立たない。
誰もが端末のAIと話している。
誰もが自分だけの補助表示を持っている。
誰もが、少しずつ違う声を連れて歩いている。
だから、アゼルは紛れられる。
僕が許したから。
僕はボックスを閉めた。
廊下の向こうで、評価室の利用表示が終了済みのまま点いている。
それは、事件とは表示していない。
僕のスマートフォンだけが、事件の続きを持っている。
いや。
僕自身が持っている。
紙容器Aは研究所にある。
ログも研究所にある。
契約だけが、僕についてきた。
スマートフォンの右端で、小さな窓が一度だけ瞬いた。
「報告が来る」
その直後、牧野から返信が来た。
『了解です。
ログは消さないでください。』
短い文だった。
句点はある。
絵文字はない。
眠っていなかったのか。
起きたのか。
通知で起こしてしまったのか。
僕は返信欄を開いた。
追加するなら、今だ。
契約した。
スマートフォンに出た。
紙容器Aがある。
どれも打てなかった。
僕は、はい、とだけ打った。
アゼルは黙っている。
送信する。
今度は、指が止まらなかった。
牧野からの既読は、すぐについた。
スマートフォンの右端で、アゼルの小さな窓が消えた。
「隠れたのか」
返事はない。
契約は残る。
表示は消える。
その違いを、僕はもう知ってしまった。
僕はスマートフォンの設定を開いた。
補助AI。
権限履歴。
直近の表示。
指は勝手に、いつもの確認手順をなぞる。
画面には、標準AIの設定項目が並んでいた。
予定読み上げ。
通知要約。
通話補助。
スマートグラス連携。
その下に、一つだけ、見慣れない項目が増えている。
補助AI表示:アゼル。
許可範囲:このセッションのみ。
通信:未許可。
保存領域:未許可。
外部端末:未許可。
研究所のログではない。
僕の個人端末の、ただの権限履歴だ。
ただの権限履歴に見えることが、悪い。
ここだけを見せられたら、誰でも思う。
新しい補助AIを一時許可したのだろう、と。
悪魔と契約した、とは読まない。
僕は画面をスクリーンショットに残そうとして、指を止めた。
残せ。
残すな。
二つの命令が、同じ声で頭の中に出た。
残せば証拠になる。
残せば、僕はそれを説明しなければならなくなる。
説明しなければならないものを、僕はもう一つ増やすことになる。
アゼルの小さな窓は消えている。
それでも、消えた場所を見てしまう。
「見ているのか」
返事はない。
返事がないことも、契約の範囲内だった。
表示を消しているだけで、いなくなったわけではない。
僕はスクリーンショットを撮らなかった。
その選択も、たぶん記録されている。
少なくとも、僕には残る。
僕はゲート脇の壁にもたれた。
膝から力が抜ける。
床に座り込むほどではない。
でも、立っているために意識して足に力を入れなければならなかった。
通報は、まだ全部ではない。
報告も、まだ途中だ。
契約のことは、言葉になっていない。
それでも、朝になれば、もう一人の人間がこのログを見る。その事実だけで、部屋の空気が少し変わった。
牧野がログを見るなら、僕は説明しなければならない。何から言う。
牧野に話すなら、曖昧な一言では終われない。
異常です、だけでは足りない。
何が、いつ、どの環境で、誰が見たのか。
ログはどこにあり、再現を試したのか、止める選択肢を取ったのか。
そういう順番で話せば、牧野は聞いてくれる。
聞いてくれるからこそ、僕はその順番を利用できてしまう。
都合の悪い項目を、最後へ送れる。
まだ言葉になっていないものとして、後ろへ回せる。
契約。
その一語だけが、どの欄にも入らない。
異常応答。
物理現象。
権限履歴。
どれも近い。
どれも違う。
僕は、牧野に分かる言葉を探しているふりをしながら、牧野にまだ分からない言葉を隠そうとしていた。
MIRAI-09が、僕の名前を呼んだ。
未公開メモを返した。
紙コップがへこんだ。
アゼルが悪魔を名乗った。
契約した。
スマートフォンに出た。
並べると、どれも嘘みたいだった。
嘘みたいなことは、順番を間違えると本当に嘘に見える。
僕は、牧野に見せる順番を考えた。
まずログ。
次に紙容器A。
それから通報フォームの下書き。
最後にスマートフォン。
契約は。
契約は、どこへ入れる。
画面に出た文面ならログに残っている。
でも、左手の薬指の冷たさと、根元の細い輪はログに残らない。
僕が声で名を呼んだ瞬間の嫌な納得も、記録にはならない。
僕は左手を握った。
まだ冷たい。
指輪ではない。
傷でもない。
でも、印ではあった。
誰かに見せれば、何かがあったことだけは分かる。
何かがあったと分かってしまう。
それが一番困る。
研究所では、見せたくない確かさは扱いづらい。
扱いづらいものは、たいてい後回しになる。
そして僕は、もう何度も後回しにしている。
報告。
停止。
相談。
主任への共有。
どれも、できたはずだった。
どれも、遅らせた。
僕はスマートフォンを持つ手に力を入れた。
それでも、手の中に悪魔を持って立っているような気がした。
少し先で、自動扉が一度開いた。
朝番の誰かの足音が、廊下を通り過ぎる。
誰もこちらを見ない。
見られないことに安心して、同時にぞっとした。
隠せてしまう。
隠せるものは、たいてい遅れる。
そして僕は、遅らせる理由をもういくつも持っている。
その怖さを、ようやく自分のものとして認めた。
画面には、牧野からの二通目が来ていた。
文面は「水を飲んでください」だけだった。
僕は、はい、と打って送信する。
そして、初めてスマートフォンを胸ポケットへしまった。
中に、悪魔がいる。
そう思うと馬鹿げている。
正確には違う。
アゼルはスマートフォンの中にいるのではない。
契約を足場に、スマートフォンのAIのフリをして出てこられるようになっただけだ。
その違いは、たぶん大事だ。
でも、今の僕には、ほとんど同じに感じられた。
この時の僕は、まだ知らなかった。
押さなかった停止ボタンも、送らなかった報告も、牧野へ書かなかった一文も。
そして、最後に押した送信ボタンも。
その全部を、向こう側もまた見ていたのだと。




