第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(一)
昨夜、僕が仕事の記録に残せたのは、一件だけだった。
MIRAI-09の画面に、説明できない応答が出た。
その一件を、社外へ見せる候補から外し、社内で確認するものに戻す。
牧野へ送った文面も、そこまでだった。
評価セッションを凍結した。
応答ログを複製した。
外へ出す資料からは外した。
外から見れば、報告漏れではなく慎重な対応だった。
評価リードとしては、間違っていない。
それでも、本当に書けない二つは書かなかった。
契約したこと。
アゼルが、僕の個人端末に出られるようになったこと。
そこから先へ、報告欄のカーソルは進まなかった。
◇
翌朝、僕は仮眠室から評価フロアに戻った。
仮眠室にいたのは三時間だ。
眠ったというより、椅子に背中を預けて目を閉じていた、という方が近い。
口の中にはコーヒーの苦味が残っていて、左手の薬指だけが、まだ内側から薄く冷たかった。
朝の評価フロアは、いつも通りに動いていた。
配送ロボットが音を立てずに廊下を曲がる。
会議室のHoloDock Airが、予約者のAIアシスタントを呼び出す。
卓上の空間に、名札つきの半透明な立体アイコンが浮かぶ。
別チームの研究員が、スマートグラスに出た要約へ相槌を打ち、手元の資料だけを閉じる。
AIと話す声が、あちこちの机から聞こえる。
この研究所では、人間だけで机に向かっている方が珍しい。
予定を読むAI。
会議を要約するAI。
評価ログから危険語を拾うAI。
研究員が自分の端末で試す、妙に凝ったアバターつきのAI。
どれも、業務改善の一部として扱われる。
アバターが変わることも、声が変わることも、語尾が少し変わることも、ここでは異常の証拠にならない。
むしろ、変わらないAIの方が、ここでは古く見える。
だから、悪魔がAIのフリをしていても、まず日常に紛れる。
そう考えたところで、胸ポケットのスマートフォンが重くなった。
僕のスマートフォンは私物だ。
ただし研究所の業務プロファイルを入れてあり、社内ではBYOD端末として扱われる。
自社AIを日常の中で使うための、ドッグフーディングの一部でもあった。
昨夜から一度も、電源を切れずにいる。
取り出さなかった。
胸ポケットを押さえ、仕事用端末だけ認証を通す。
スマートグラスも研究所プロファイルへ切り替わり、私物通知は視界の右下へ畳まれた。
評価フロアはフリーアドレスで、案件ごとに空いた作業卓を取る。
僕はMIRAI-09のログ確認用に、牧野と使う二人卓を押さえていた。
MIRAI-09は、開発中の対話AIだ。
僕たち安全性評価チームは、それを作るチームではない。
開発側から回ってきた応答を読み、社外のレビュアーに見せられるものだけを残す。
社外へ見せる応答は、外部レビュー候補一覧に並ぶ。
根拠を出せる応答は残す。
説明できない応答は外す。
条件が足りない応答は、社内確認へ戻す。
僕は評価リードとして、残すか戻すかを決める。
牧野は同じレビュー卓で、僕が戻した候補を次の作業へつなぐ。
誰が見るか。
どのログを見るか。
いつまでに見るか。
それを候補一覧の横へ付ける。
僕が安全上の判断をし、牧野が週明けに開いても迷わない形にする。
チームの仕事は、だいたいその往復でできている。
金曜の予定表に、今日やることが四つ並んでいた。
十時半。
外部レビュー準備定例。
外部レビュー候補一覧から、MIRAI-09原因未特定の応答を一件外したことを報告する。
十一時。
再確認方針レビュー。
その応答について、週明けに誰がどのログを見るかを決める。
午後。
通常評価。
毎日回ってくる安全判定を、既存基準で閉じられるものから処理する。
終業前。
共有ワークログ更新。
今日外した候補と、週明けに見るログ、担当者、期限をチームの作業記録へ残す。
四つは別々に見えて、机の上では一本につながっている。
前が遅れると、次が机の端で待つ。
ひとつ遅れると、全部遅れる。
昨夜のせいにすれば、遅れても仕方がない理由はいくらでも作れた。
レビュー卓に戻ると、牧野沙耶が僕の端末の左端に付箋を貼っていた。
ネイビーの薄いジャケットの袖口が、付箋を押さえる手首で少し折れている。
髪は低い位置でひとつにまとめてあり、目元には眠い人間を見る側の鋭さが残っていた。
『水を飲んでください。
コーヒーは水ではありません。』
僕は付箋を見て、少しだけ笑った。
笑う余力が残っていたことに、自分で驚いた。
「三嶋さん」
隣の席から牧野の声がした。
「はい」
「その返事、寝てない人の返事です」
「三時間は横になった」
「それは睡眠ではなく、ただの一時保存です」
「手厳しいな」
「優しい方です」
牧野はそう言って、自分の端末を開いた。
机の上に白い作業欄が開く前に、牧野がイヤーカフに軽く触れる。
僕の画面に、同席者カードが一枚出た。
牧野沙耶。
補助AI、KANAME。
共同レビュー。
健康データ、非共有。
通知照会、許可制。
研究所の標準テンプレートどおりだった。
牧野の席は僕の斜め横だ。
向かいではなく、同じ画面を横から見る位置にいる。
余計な入力欄はない。
曖昧な言葉もない。
「カナメ、作業欄を開いて。見出し、MIRAI-09原因未特定の応答」
牧野の端末に、短い返答が出る。
> 作成しました。
牧野の端末側に、白い作業欄が一つ開く。
それ以上のカードは出ない。
「カナメ、共有状態を確認」
端末の返答は、同じ白い作業欄に出た。
> この作業欄に共有されたログ本文はありません。
「了解。
では、三嶋さんが出せる範囲でお願いします」
カナメは返答を終えた。
牧野の作業欄には、見出しだけが残った。
本文欄は空白のままだった。
標準的なAIは、見えないものを見たふりはしない。
共有された欄だけを読み、空白には手を出さない。
その線引きに、少しだけ安心しかけた。
その外側から、別の声が入った。
「MIRAI-09関連の未送信下書きが一件あります。
件名は、MIRAI-09異常応答について」
僕の仕事用端末から、少し低めで澄んだ声がした。
反射的に画面を閉じようとして、指が止まる。
右下の丸い業務支援AIアイコンが、一度だけ暗くなった。
再点灯すると、そこにいたのは、僕が設定した覚えのあるアバターではなかった。
黒い髪に、赤い光の筋。
黒い研究服。
小さな角。
スカートから垂れた、尻尾に見える細いコードのような飾り。
背中には、翼に見える薄い影。
若い女性に寄せた顔立ちが、画面の端でこちらを見ていた。




