第14話 夢を見る研究室(二)
神代は伏せた一枚目から手を離し、三枚目の見出しへ目を移した。
「ネルガの声を初めて聞いたのは、真由の状態が急性期を越えた頃です。
反応探索の最初の記録を、研究用NTR-Rで解析した夜でした」
その夜、保存記録の再生は水原の操作で終了し、NTR-Rへの入力は閉じられていた。
E-3に残っていたのは、神代だけだった。
仮名化された結果を書き出す進捗の輪が、端末の中央で何度も同じ場所を回っていた。
神代は待つ間だけのつもりで机に腕を組み、そこへ額を置いた。
次に顔を上げた時、進捗の輪は消えていた。
白い壁に囲まれた空間は、E-3と同じほどの広さだった。
机のあったはずの中央まで空で、四方の壁は白くつながっていた。
どこかで水滴が落ち、その音が一定の間隔で続いていた。
神代は壁を一周した。指先で継ぎ目を探しても、出口になる線はなかった。
二周目を歩き始めた時、水音の方に人が立っていた。
神代は三枚目の紙へ目を落とした。
「入院前に最後に会った時の服でした」
夢の中で、神代は名前を呼んだ。
「真由」
妹の姿をしたものは、神代が覚えている立ち方のまま、白い壁を背にしていた。
「その服は病院にない」
神代が言うと、相手は自分の袖を見た。
「私は、真由だとは言っていません」
「なら、誰だ」
「ネルガ」
水滴の音がした。
神代は妹の姿から目をそらせないまま、尋ねた。
「何をするつもりだ」
「あなたが、まだ失ったと決められないものを、散らさずにこの部屋へ留めます」
次の水滴が落ちる前に、神代はE-3の中央机へ戻っていた。
端末では、解析の進捗を示す輪がまだ回っていた。
神代は三枚目から牧野へ目を戻した。
「僕が知っている姿を使っただけだと、その時から分かっていました」
牧野が聞いた。
「分かっていて、話したんですか」
「妹の姿でなくても話したと思います」
神代はすぐに答えたが、続く言葉は遅れた。
「……いや、そう思いたいだけかもしれません。
真由の名前を、僕が口にする前から知っていたかは分かりません。
僕の夢に入った時点で、僕が知っている名前を読んだのかもしれない」
神代は牧野の手元を見た。
牧野はペンを置いたまま、うなずいた。
神代が三枚目を牧野の方へ押した。
「神代透が、ネルガという非人間知性との接触を自認した。
妹の医療記録とは分ける。
それだけにしてください」
牧野は、神代が指定した二文を三枚目に書き、紙を神代の前へ戻した。
神代は二文を読み、三枚目を机の中央へ戻した。
玲央が尋ねた。
「契約した時、何を望みましたか」
神代は伏せた一枚目に手を置いた。
白い裏面を、手のひらでしばらく覆っていた。
「妹を戻してほしい、と言いました」
神代の声が、昨日より低かった。
「ネルガは、戻すとはどの状態かと聞いた。
事故の前までの記憶なのか。
今、病室にある身体なのか。
目を覚ました後も、同じ性格でいることなのか」
神代は一枚目から手を離した。
紙は伏せられたままだった。
「一つ選べば、それ以外の真由を捨てる気がしたんです。
僕が戻したいと思っているものを、僕自身が説明できなかった。
それで、願いを変えました」
牧野のペンは紙の上で止まっていた。
玲央が尋ねた。
「どう変えたんですか」
「僕の願望を真由の返事に混ぜずに、妹がどこまで残っているのか知りたい」
神代はそう言い、三枚目の空白を長く見つめた。
「戻すより小さな願いにしたつもりでした。
でも、何を妹と呼ぶか決められないまま、どこまで残っているかを知ろうとした。
それでは、僕が残っていてほしい部分だけを、真由だと決めることになる」
玲央が尋ねた。
「ネルガは、何と答えましたか」
「確かめる部屋を作る、と」
神代は二枚目の「部屋」を見た。
「その時、もう一つ条件を出しました。
僕にしか見えないなら、気の迷いと区別できない。
ネルガを真由の反応探索に関わらせる前に、僕以外にも確かめられる痕跡を示してほしい、と」
玲央が尋ねた。
「ネルガは?」
「別の悪魔と、その契約者なら、私の反応を見分けられる、と答えました」
牧野は二枚目を、三枚目の隣へ寄せた。
「では、その痕跡として、昨日の二つの文面を出すよう頼んだんですか」
「いいえ。文面も、出す場所も指定していません」
牧野は三枚目を九十度回し、神代と玲央のどちらからも読める向きにした。
神代は三枚目の余白へ「校正試験」と書いた。
「真由で、いきなりネルガの見方を試すつもりはありません。
患者の反応探索とは別に、話して答えられる協力者に、
あとで本人の答えを確かめられる課題へ取り組んでもらう校正試験が動いています。
応答探索AIが反応を拾いすぎたか、見落としたか。研究者が先に判定し、本人の答えと照らす試験です。
研究者が解析補助AIを使うことも、研究計画と参加者への説明に入っています」
神代は「研究者が先に判定」の下へ線を引いた。
「ネルガには、AIが拾いすぎているか、見落としているかという見方を、僕だけに伝えてもらう。
その助言を採るかは僕が決めます。採った時は、僕の見立てとして出す。
外れれば、僕の判断が外れたことになります」
牧野が聞いた。
「その代わりに、ネルガへ何を返すんですか」
「AIの出力と、僕が出した見立てと、本人の答えを並べた記録です。
一致した例だけでなく、外れた例や、確かめきれなかった例も返すつもりでした。
ネルガが知りたいのは、どこまでを同じ人の反応と呼べるかです」
牧野は三枚目に「契約で互いに渡すもの」と書いた。
その下で、ネルガが神代へ示すものと、神代が自分の判断として出すものを分けていった。
神代は、AI、神代、本人の三つを並べた記録を、ネルガへ返すという一行を指で押さえた。
「契約した時は、これを僕が渡せると思っていました」
神代は、「ネルガへ返す」の下に線を引いた。
「でも、真由の測定記録は僕のものではありません。
ほかの研究参加者の記録も同じです。この約束は、ネルガと話し直します」
玲央が尋ねた。
「夢で会う必要も、契約にはないんですか」
「ありません。昨日までは、ネルガとは夢でしか話せませんでした」
「昨日まで?」
「昨日、アゼルが三嶋さんのスマートフォンから要求を送った時、
ネルガは、契約者の端末なら夢の外で話せると気づきました。
昨夜、僕のスマートフォンを使っていいか聞かれました」
玲央の視線が、神代の目の下へ移った。
昨日より影が濃かった。
「夢で話すと、眠れないんですか」
「眠れます。ただ、呼んだ夜は眠りが浅くなります」
神代の背と椅子の間には、拳ひとつぶんの隙間が残っていた。
「眠りが浅いのは、僕の記憶で姿や声や部屋を作るからだと思います。
僕が覚えている場面と、真由の記憶に見える場面が、同じ夢に混じる。
そこでネルガと話します。
ただ、夢に自分の覚えのない場所や出来事が出てきても、真由の記憶だとは決めつけない。
真由の声が聞こえても、本人が答えたとは受け取らない」
牧野が尋ねた。
「途中で、ネルガとの接触を終わらせられるんですか」
神代は口を閉じた。
「終わらせられた夜もあります。
でも、できなかった夜は、目が覚めても、夢が僕の記憶だけでできたのか、真由の記憶が混じっていたのか、
僕がそう思いたいだけなのか、区別できません」




