第14話 夢を見る研究室(一)
丸の内AIインキュベーションセンターの一般利用ラウンジは、昼の利用者で混み合っていた。
開放席の話し声と椅子を引く音は、個室の扉が閉まると急に遠くなった。
神代は個室の入口で足を止めた。
細い机の向こうに玲央がいる。
その隣には牧野もいる。
二人のスマートフォンは、画面を伏せて並べてある。
神代が二人へ言った。
「来てくださって、ありがとうございます」
神代の肩から、わずかに力が抜けた。
牧野は扉の内鍵を確かめてから、神代へ向き直った。
「個人として来ました」
机の中央には、低い楕円形のHoloDock台座が備え付けられている。
卓上にはまだ透明な投影面が立っておらず、内蔵スピーカーも鳴っていない。
神代も自分のスマートフォンを伏せた。
左手を机へ置くと、薬指に残る輪状の痕が白い照明の下ではっきり見えた。
玲央が言った。
「念のため、もう一度だけ確認します。
ここで何を話しても、昨日の公式評価は変わりません」
神代は椅子を引いた。
「分かっています。その評価とは別に、僕が話しておくべきことがあります」
牧野は鞄から、白い用紙を三枚だけ取り出した。
印刷された社名も、管理番号もない。
神代は三枚を見た。
「何を書けばいいですか」
「混ぜたくないものを、一枚ずつ」
牧野はペンを二本置き、一本を神代へ差し出した。
神代は一枚目に`真由の保存記録`、二枚目に`昨日の表示`、三枚目に`神代透本人の契約`と書いた。
一枚目を書いた時だけ、神代のペン先が紙から離れなかった。
やがて、神代は一枚目を裏返した。
二枚目には、昨日、署名の外へ出た二つの文面を書いた。
[昨日の表示]
三回目・五回目の再生後――部屋はまだ空いている。
監査要求への返答――あなたも部屋を借りている。
神代は、その二行でペンを置いた。
表示の下には、誰の言葉だったのかを書き足す余白が残った。
神代が言った。
「二人が何か書き足した時は、その場で僕にも読ませてください」
牧野はうなずいた。
三枚目は、見出し以外が空白だった。
牧野は二枚目の二行を見た。
「昨日、`部屋`という言葉を見た時、神代さんだけ反応が違いました」
「妹の真由は、居住支援員です」
神代は、二つの文に共通する`部屋`へ指を置いた。
「住む場所を失った人の希望を聞き、空室のある大家と条件を調整して、契約まで付き添う仕事をしていました」
以前、真由が勤務表を神代へ見せ、帰りの遅い日が続くとこぼしたことがあった。
神代は電車の時刻まで調べ、睡眠時間を確保する一週間の予定表を翌朝には作った。
真由は表を最後まで見てから言った。
「ありがとう」
「疲れていたんだろ」
「平気」
答えたあと、真由は目をそらし、少しだけ言い直した。
「……平気っていうのは、言いすぎた。でも、最後は私に決めさせて」
真由は予定案を、神代の方へ押し戻した。
二人で一枠ずつ直し、最後に予定を決めたのは真由だった。
神代は二枚目へ目を戻した。
「応答探索AIが、真由の脳波を`部屋`という言葉にしたとは思っていません」
神代は指をどけた。
「応答探索AIは、通常は言葉を作らない。
それでも僕には、真由の仕事を知っている誰かが、`あなたも部屋を借りている`と返したように思えました」
玲央が、伏せた一枚目へ視線を向けた。
「真由さんは、現在どういう状態ですか」
神代は伏せた一枚目を表に返さず答えた。
「脳死ではありません。起きて目を開けている時間はあります。
視線や表情が変わることもある。でも、同じ指示への反応を安定して確認できていない。
昨日使ったのは、事故後、比較的覚醒が保たれた時間帯に病院で行った反応探索の保存記録です」
玲央は、前日の評価票に残した三行を口にした。
「反応候補は検出。随意反応は未判定。意思疎通試験は開始不可」
「はい。あれを、真由の返事へ変えることはできません」
神代は伏せた一枚目を表に返し、見出しの下へ一行だけ書いた。
[真由の保存記録]
保存記録の反応を、真由本人の返事として扱わない。
二人へ読ませてから、もう一度伏せた。
玲央は、伏せた自分のスマートフォンへ手を置いた。
「先に、僕の側から話します」
神代が顔を上げた。
「僕の研究支援AIは、AIではありません」
神代の視線が、玲央の左手へ落ちた。
神代が言った。
「昨日、結果画面に出た返事は、その研究支援AIに向けたものですね」
玲央が聞いた。
「どうして、そう思ったんですか」
神代は二枚目の紙を指で押さえた。
「昨日、結果画面に出た四つの選択肢は、どれも選ばれなかった。
代わりに、その選択肢を出した相手へ`あなたも`と返す文が出た」
玲央は無意識に薬指を曲げていた。
指を開き、机の上へ置き直した。
「アゼルといいます。
本人は、自分を悪魔だと言っています」
「僕にも、アゼルを見せてもらえますか」
「その前に、神代さんの話を聞きたい」
玲央はHoloDockの台座へ伸ばしかけた手を戻した。
「昨日の返答をした相手に、名前はありますか」
神代の指が、三枚目の用紙の端を折った。
小さく付いた折り目を、爪で戻そうとした。
紙は元どおりにはならなかった。
「ネルガ」
部屋の空調が止まり、折り目を爪で戻す音だけが残った。
「僕は、そう名乗る声と契約しています」
玲央が言った。
「昨日、三回目に署名の外へ文が出た時、アゼルは別の悪魔に気づきました。
五回の再生が終わったあと、アゼルが要求文を送ると、画面に文を出した相手はアゼルへ直接返しました」
神代は折り目を直す手を止めた。
玲央は続けた。
「これで分かるのは、あの相手が神代さん以外にも返事をした、ということまでです。
相手が本当にネルガなのか、話したことが事実なのか、真由さんの状態が変わったのかは、まだ分かりません」
玲央が尋ねた。
「昨日、なぜ言わなかったんですか」
「悪魔と契約したと言っても、信じてもらえない。
それに、僕自身も最初は信じ切れませんでした。
真由を失いたくない気持ちと、眠れていない頭が作ったものかもしれない」
神代は薬指の輪状痕を、右手で覆った。
「先に悪魔の話をすれば、僕の精神状態だけが問題になり、研究から外される。
悪魔や契約者を利用したい人間にも届きます。
だから昨日は、装置との距離と薬指の痕だけを申告し、悪魔の話は伏せました」
牧野が尋ねた。
「署名の外へ出た二つの文面は、ネルガに頼んだんですか」
神代は二枚目の二行を見たまま、すぐには答えなかった。
答える代わりに、三枚目を牧野の方へ押した。
「最初から話します」




