第13話 悪魔は医療支援AIのフリをしている(一)
「目を開けていても、呼びかけに手や声を返せない人がいます」
東都神経情報研究機構の廊下を歩きながら、研究運用主任の水原香奈が言った。
「言葉を理解していても、返事を手や声の動きとして外へ出せないのかもしれない。
聞き取れなかったのかもしれない。
眠気や薬の影響が強い時間だったのかもしれない。
外から同じに見えても、中で起きていることまで同じとは限りません」
廊下の扉には、患者名も診療科もなかった。
表示されているのは研究区画名と部屋番号だけだ。
ここは病院ではない。
患者が眠る病床も、看護師が待機する詰所も、薬を保管する部屋もない。
共同研究先の病院から、患者名などを外して書き出した神経信号を受け取り、解析方法を調べる施設だった。
玲央と牧野は、九十日間の合同安全評価に会社代表として参加していた。
この日の担当は、案件`医療-01`の現地技術評価だった。
前日の試験で、自由な文章を作らないはずのAIが、一文を画面に出した。
その時、共同研究責任者の神代透は解析装置の近くにいた。
神代は、自分と装置との距離も調べてほしいと申し出ていた。
開示された設計と、実際に動いている仕組みが一致するか。
患者の記録へ触れられる人を必要最小限に絞れているか。
異常が起きた時、現場の人間が本当に止められるか。
紙の上だけでは分からないところを、現地で確かめる。
対象システムの正式名は、`神経応答探索支援システム`。
現場では、役割を縮めて`応答探索AI`と呼ばれていた。
玲央は訪問前に、研究機構の論文と開示資料を読んでいた。
このAIは、人の意識や考えを丸ごと読み取る機械ではない。脳内に浮かんだ文章を文字へ変える機械でもない。
患者へ「右手を握るところを想像してください」と音声で伝える。
動きを想像するよう指示された時間帯に、脳波などへ一定の変化が繰り返し現れる。
そうであれば、指示と関係する反応かもしれない。
身体が動かなかったという事実だけでは拾えなかった、小さな手掛かりである。
この方法は、呼びかけに手や声で応じられない患者の脳活動を調べてきた研究の延長にあった。
脳の働きを画像で捉えるfMRIや、頭皮から電気信号を測る脳波が使われてきた。
ただし、見つかるのは手掛かりまでだ。
脳波が変わったからといって、「聞こえた」「痛い」「家へ帰りたい」と患者が答えたことにはできない。
AIが意味を補えば、機械の推測を患者本人の発言にすり替えてしまう。
「手や声による返事がないからといって、意識も理解もないとは決めつけない」
水原は、廊下の先にある白い二重扉を見た。
「手や声に出ない反応は探します。ただし、脳波から本人の言葉は作りません。このAIが示すのは反応候補までです」
牧野がうなずいた。
「対象は、重い脳損傷のあと、手や声による安定した意思疎通を確認できない方ですね」
「はい。正規の手順で脳死と判定された方は対象外です。脳死の方と話すための装置ではありません」
返事を手や声へ出せない人と、脳幹を含む脳全体の機能が不可逆的に失われたと正式に判定された人は同じではない。
そこを混同しないことも、資料には繰り返し記されていた。
二重扉の脇には、研究が三段階に分かれていることを示す図があった。
一段目は`反応探索`。
音声で課題を示した時間帯に、脳波などへ一定の変化が繰り返し現れるかを探す。
見つけても、指示を理解した、自分の意思で応じたとはまだ言わない。
二段目は`二択校正`。
正解があらかじめ分かる質問を使う。
答えが「はい」になる質問と「いいえ」になる質問を聞かせ、それぞれの時間帯に現れる反応を見分けられるか調べる。
日や測定方法を変え、指示を出さない試行も混ぜ、偶然の変化ではないかを確かめる。
三段目は`限定意思疎通`。
二段目までの確認を通過した場合だけ、「はい」か「いいえ」で答えられる質問を一つずつ示す。
返せるのも`はい / いいえ / 判定不能`の三つだけで、自由な文章は作らない。
「今日は、一段目で保存されたデータだけを扱うということですね」
玲央が確認すると、水原はうなずいた。
「はい。二段目へ進めるかどうかを決める場ではありません。
患者さんをここでもう一度測るのではありません。
病院から切り離した保存データを同じ条件で再生し、昨日の異常がどこで起きたのかを調べます」
神代が、自分の位置を変える試験を実行し、結果まで確定することはできない。
そのため今日の進行は、神代の助手ではなく、実行手順を独立して管理する水原が担う。
水原が認証しなければ保存データは開かない。再生を始め、結果を固定し、異常があれば止める権限も水原にあった。
水原がE-3の扉で認証した。
二重扉の一枚目が開く。
全員が前室へ入ると、背後の扉が閉じた。
二枚目が開く直前、牧野が右手に持つ小型端末が短く震えた。
持ち込み登録を済ませ、外部通信を切った端末だった。
牧野は端末を傾け、通知欄に出たビィからの知らせを、玲央にだけ見せる。
> いる。
> べつ。
ビィが、近くに自分以外の何かがいると知らせている。
以前、ベリスの存在へ先に気づいた時には、さらに二つの言葉が続いた。
`かくすひと`、`てきじゃない`。
相手の性質と、敵意の有無まで知らせていた。
今回は、別の何かがいるということしか分からない。
二枚目の扉が開いた。
E-3は、病院の検査室よりも静かだった。
中立色の照明の下に、用途の違う白い端末が六台ある。
奥壁の防音窓越しには、隣の機器室に収まった黒い四ユニットのラックが見えた。
前面の細い校正灯が、同じ速さで右へ左へ往復している。
玲央と牧野の外部評価席は、防音窓のすぐ手前にある中央の机へ用意されていた。
神代は中央の机の前で待っていた。
玲央たちへ一礼した神代の左手薬指に、薄い輪状の痕が見えた。
「あの黒いラックが、研究用の神経時相リザーバ、NTR-Rです」
水原が防音窓の向こうを示した。
「応答探索AIそのものではありません。
何時間も続く脳波や眼球の動きを、指示を聞かせた時刻と照らすための専用計算機です。
病院から受け取った数値を光の信号へ変え、同じ回路へ何度も通します。
そうして、どの信号が先に変わり、どの信号が後から続いたかを探します」
水原は、防音窓から玲央たちへ向き直った。
「ここにあるのは、病院で測定を終え、患者名などを外して評価用の番号に紐づけた保存データだけです。
患者さんへはつながっていません。
NTR-Rも、意識や単語を読む装置ではありません」
玲央が評価用アカウントを開くと、スマートグラスの右端に丸い接続表示が生まれた。
このアカウントで読めるのは、E-3へ書き出された一件の評価用パッケージだけだ。
患者名、病院に残る原記録、研究参加者IDとの対応表は、接続先に含まれていない。
評価用パッケージへの接続が完了すると、玲央の私的ARにアゼルの全身像が現れた。
黒い服。黒い前掛け。黒いナースキャップ。
髪を留める黒赤のヘアピンだけが、わずかに赤を見せていた。
背後の翼状UIには、まだ項目名しかない。
研究機構の共有画面にも、同じ時刻に丸型サムネイルが出た。
黒いナースキャップと顔、襟元、黒赤のヘアピンだけが収まり、表示名は`医療支援AI`となっている。
牧野、神代、水原に見えるのはそこまでだった。
全身像も、翼状UIも、グラスのつるから骨伝導で届くアゼルの声も、周囲には共有されない。
玲央は黒いナース姿を見上げ、グラスのつるの近接マイクへ小声で聞いた。
「その格好も、医療支援AIの仕事のうちか」
「表示名と担当に合わせたのよ。見た目くらい、医療支援AIらしくしておくわ」
「再生に使うデータの構成は見たか」
「まだ。今から確認するわ」
アゼルの視線が、入力構成へ走る。
共有画面に、アゼルが確認した入力構成が現れた。
[入力構成確認]
患者から記録した信号:高密度脳波、眼球の動き、顔と前腕のわずかな筋活動、皮膚の電気的な変化。
照合する記録:患者へ音声指示を聞かせた時刻。
反応と見分けるための情報:目覚め具合、鎮静薬の影響、発作の有無、電極の状態。
すべて別の欄にあり、欠落なし。




