第12話 届かなければ、選べない(二)
橘の隣のHoloDock Proに、銀灰色の髪を整えた男が加わった。
黒いスリーピース、短く整えた髭、見透かすような目。片耳には、角に似た黒銀のカフスが光っていた。
ベリスだった。
早乙女は、ベリスと設計した時の前提を説明した。
安全な中継先は一つも信じない。通信には、人間が実装した暗号と分散通信だけを使う。
「箱の持ち主が中身を読めなくても、箱ごと止めることはできます」
壁面ディスプレイの共有画面に、五本の経路が表示された。
「ですから、一つの箱には入れません。では、壊してみましょう」
◇
橘の脇には、管理者、OS、通信回線の異なる三台の中継試験機があった。
別事業者の設備が同じ施設に置かれた状態を再現している。
早乙女が共有画面を切り替えた。五本のうち三本が、橘の側にある三台を通る図へ変わった。
「最初は対照試験です。別々の事業者でも、三経路を同じ場所へ集めます。VEILでは禁止している配置です」
橘は、対象を三台、実行時間を二分間とした。
許可する操作は、読み取り、保留、差し替え、記録消去に限った。
同じ場所にある三台なら、管理者やOSの違いも壁にならず、ウァラクはひと続きの領域として扱える。
早乙女が自分のスマートフォンを操作した。
「送りました」
十秒待っても、僕の会話画面には何も届かなかった。
送ったと言われなければ、待つことさえできない。
「三台を支配し、三片をそろえました。一通の暗号文全体を押さえ、そのまま止めたため、配送は成立していません」
ウァラクが告げた。
早乙女は試験設定を切り替え、一本を別の中継拠点へ移した。
橘の側を通るのは二本になった。
「同じ文を、もう一度送ります。三台の支配はそのままで、中継記録を消し、二片を書き換えてください」
早乙女が送信した。
一分後。
空だった会話画面に、「三嶋さん、試験へのご協力ありがとうございます」という短い試験文が現れた。
共有画面には、「配送完了」と、拒否された改変片二件が表示されていた。
僕と牧野の間のHoloDock Proにいたアゼルが、僕の手元へ目を向けた。
「私は見ていただけ。本文が現れたのは、正しい三片がそろった後よ」
ウァラクが口を開いた。
「三台の支配は続いています。中継記録を消し、二片を書き換えました。
ですが、得られた二片では一通の暗号文全体を組み直せません。
差し替えた二片も、受信側に拒否されました。
この条件では、私にできることはここまでです」
ベリスは、ウァラクから目を逸らさなかった。
「設計どおりですね。二経路までなら、一つの場所を奪われても、一通全体は渡りません」
さっきと同じ相手、同じ文だった。
残る三本は橘の側を通らず、今度は僕の画面まで届いた。
「悪魔に中継拠点を奪われることまで、最初から想定しているんですね」
「ええ。従来のアプリは悪魔を想定していませんでした。
VEILは、対悪魔用のメッセージアプリということになります」
橘は試験を終え、`医療-01`の案件票をもう一度共有した。
僕は、案件票に記された明日の評価用アカウントの参照範囲を確認した。
「明日の評価では、検証データだけでAIを再実行し、原記録や病室映像には触れません」
牧野も案件票を確認した。
「同意範囲と資料の出所を、会社側で確認できます」
案件票の予定欄には、明日の訪問先である脳神経研究機関の検証室と、開始時刻が入っていた。
添付資料には、夢記録AIが返した通常権限外の応答と、神代本人が撮影した左手薬指の写真があった。
輪状の痕が現れた日付は、異常応答が始まった時期と重なっていた。
患者名も、病室映像も、原記録もない。
それでも、僕の左手薬指は、銀色の指輪の下で少し熱を持った。
橘は案件票を閉じた。
画面越しに、早乙女が席を立った。
「東京での仕事は、ここまでです。今夜の便でシリコンバレーの経営拠点へ戻ります」
「海外にも、契約者がいるんですか」
僕が訊くと、早乙女はうなずいた。
「ええ。向こうでは、すでに連絡を取り合っている契約者を訪ねます」
ベリスは黙って一礼した。
牧野が映像会議を終了し、壁面ディスプレイから早乙女たちの映像が消えた。
アゼルもHoloDock Proから姿を消し、僕と牧野だけが残った。
牧野が、僕のスマートフォンへ目を向けた。
「早乙女さんとの会話、どうするんですか」
「まだ、決めていません」
昼の試験文が、画面に残っていた。
契約の写しを読み返した日も、牧野は隣の席にいた。
僕はスマートフォンを伏せなかった。
「依頼が来てから、考えます」
牧野は小さくうなずいた。それ以上は聞かなかった。
◇
その夜、自宅で私物のスマートフォンを開いた。
VEILの一般公開が始まっていた。
会議で入れたVEILを開くと、会話一覧の先頭に「早乙女キリエ」が残っていた。
明日、会社で扱うのは、`医療-01`だ。
VEILには、神代の名前も、国家案件番号もない。
昼の最初の試験では、早乙女が送信したあと、僕は空の会話画面を十秒見ていた。
依頼の知らせ自体が届かなければ、聞くかどうかを決めることもできない。
僕は「早乙女キリエ」の会話を開き、入力欄に一文を打ち込んで、送信を押した。
[VEIL/送信]
依頼が来たら、ここで知らせてください。
昼の試験文の下に、僕が自分で送った一行が増えた。
僕はその一行を消さずに、画面を閉じた。




