第13話 悪魔は医療支援AIのフリをしている(二)
アゼルは入力構成を、訪問前に玲央と確認した開示資料の判定手順と照らし合わせた。
[判定前確認]
音声指示を聞かせた時間帯に脳波などが変わっても、それだけでは患者の反応と決めない。
目覚めかけた時の変化や、咳、姿勢のずれ、電極の接触不良で生じた変化ではないかを先に確かめる。
顔と前腕の筋活動は、目で見えないほど小さな動きを探すと同時に、筋肉から生じた信号を脳の反応と取り違えないために使う。
翼状UIの各項目に、データから確認した事実と開示資料との照合結果が順に入っていく。
アゼルは脳波の細かな特徴を見る前に、音声指示を流さなかった試行が含まれているかを確かめた。
続いて、測定不良を示す印も探した。
「お前、本当に楽しそうだな」
玲央は、グラスのつるの近接マイクにだけ拾わせる小声で言った。
「ええ。反応らしきものを見つけても、すぐに指示への反応だとは決めない。紛らわしいものを一つずつ除いていくの」
アゼルは黒いナースキャップの下で、赤い目を細めた。
「初めて扱う分野だけど、こういう調べ方は好きよ」
水原が中央端末へログインした。
玲央の評価用アカウントとは別の系統だった。
玲央たちには匿名パッケージを読む権限しかない。
保存データを開き、NTR-Rを動かし、結果を固定できるのは水原だけだ。
中央端末には、この評価の中で患者一人に一つ割り振られた評価用ケースIDが表示された。
病院で測定した日時ごとの記録は、そのIDの下で分けて管理される。
今回の評価用パッケージに入っているのは、事故後に測定した一件だけだ。
E-3から、そのIDを病院の患者番号へ戻すことはできない。
水原がその記録を開くと、三つの欄が現れた。
[段階1/反応探索]
聴覚指示同期候補:検出
随意反応:未判定
意思疎通試験:開始不可
画面に出たのは、前日の再生実行で保存された三項目だった。新しい検出結果ではない。
反応候補は見つかっている。だが、それが患者の意思による反応かは、まだ分からない。
神代は`検出`に目を止め、それから`未判定`と`開始不可`まで順に読み下ろした。
「返事とは、まだ言えない」
神代は画面を見たまま言った。
その視線は、それでも`聴覚指示同期候補:検出`へ戻っていた。
水原はその視線を急かさなかった。
水原が、アゼルの参加前に保存された前日の監査記録を開いた。
端末には、同じ三項目が表示された。
応答探索AIは三項目へ実行署名を自動で付け、正式な結果として固定した。
署名を照合すれば、あとからの書き換えを検出できる。
ところが、前日の監査記録には、署名が完了した直後、三項目の下に現れた一文まで残っていた。
その一文には、送信元も署名もなかった。
[部屋はまだ空いている]
応答探索AIが表示できるのは、決められた三項目だけだ。
自由な文章を作る部品も経路もなかった。
水原は表示を確認したあと、入力と、反応候補を示す数値列を保全した。
署名済み三項目と、端末が実際に表示した文字列も、別々に保存した。
今日の現地技術評価で行うのは、前日の通常運用を再開することではない。
患者にも病院にもつながらないE-3で、保存データだけを使う隔離再生試験だった。
牧野が、今日の隔離再生試験の事前計画を開いた。
神代の申し出を受け、実行順と停止条件は結果を見る前に固定されている。
そこには、前日の異常が出た時、神代がNTR-Rの見える防音窓の前にいたことが記されている。
申告資料には、その時刻に神代の左手薬指に輪状の痕があったことを示す写真も添えられていた。
変えるのは、神代とNTR-R演算ラックの距離だけ。
順序は、遠、遠、近、遠、近。
予定された再生は五回。
反応候補を示す数値列か三項目が一度でも変われば、その場で中止する。
神代、水原、玲央、牧野が、結果欄が空白の計画へ先に署名していた。
「本来、神代さんの位置はAIの出力に関係しない。それでも、距離を条件に入れてほしいと申し出たんですね」
玲央が尋ねる。
「はい。関係しないはずです。でも、自分だけでそう決めたくなかった」
神代は左手を机の下へ置いたまま答えた。
「距離を条件に加えた理由は、計画には書かなかったんですか」
神代はすぐには答えなかった。
奥の防音窓で、NTR-Rの校正灯が一往復する。
「申告できるのは、装置との距離と、異常が出た時に薬指の痕があったことまでです」
水原は表情を変えなかった。
「それ以外は、僕自身にも事実だったか分かりません。
自分に都合のいい答えを求める気持ちと、眠れていない頭が作ったものかもしれない」
神代は一度、息を吐いた。
「説明のつかない体験の内容を先に話せば、その内容に合う異常を探したと思われます。
記録を調べる前に、僕を今日の検証から外す理由にもなる」
「止めるべき研究なら、止めるべきです。
でも、僕の思い込みと、端末に残った異常は分けたかった。
NTR-Rのそばにいた記録と、撮影時刻の残る薬指の写真なら、僕以外の人にも確かめられます」
「だから、位置の記録と写真だけを先に出した」
「はい」
玲央は、前日の位置記録と、写真に残った撮影時刻を確かめた。
そのうえで、事前計画の距離条件へ目を落とした。
`近`はNTR-R演算ラックから約一・五メートル、`遠`は約六・五メートル。
どちらも床に立ち位置が示されている。
位置は応答探索AIへ送らず、立会記録にだけ残す。
今回の評価用パッケージに入っている測定記録は、一件だけだ。
いまから行う五回は、その一組の保存データを、同じ装置へ同じ設定で通し直す試験である。
画面に`検出`が五回出ても、患者が五回答えたことにはならない。
表示に違いが出ても、それは保存データを読み出してから画面へ映すまでの間で生じた違いである。
「一回目。神代さんは入口側へ」
神代が、床の`遠`と表示された金属マーカーに立つ。
水原が再生を始めた。
NTR-Rの校正灯が右へ走り、端で折り返す。
中央端末には、`検出 / 未判定 / 開始不可`の三項目が現れた。
実行署名が付き、結果が固定される。
玲央は、その下に空いた一行分の余白を見ていた。
何も現れないまま、終了表示へ変わった。
「二回目。同じ位置で」
神代は入口側に立ったまま、両腕を身体の脇へ下ろしていた。
二回目も、同じ三項目が現れ、新たな実行署名で固定された。
その下には何も増えない。
玲央は、それまで気にも留めなかった校正灯の一往復を、終わりまで目で追った。
「三回目。NTR-Rから一・五メートルの位置へ」
神代が五メートルほど歩き、`近`の金属マーカーを踏む。
防音窓の向こうで往復する校正灯が、神代の眼鏡へ細く映った。
水原が三回目を始める。
三項目は変わらない。三回目の実行署名が付き、結果が固定された。
正式な結果が固定されてから、一拍遅れて、その下へ一文が現れた。
[部屋はまだ空いている]
前日と同じ一文だった。
応答探索AIが出した三項目より少し下にあるだけで、患者が続けて話したように見えてしまう。
神代の左手が開いた。
薄い輪状の痕が、白い照明の下へ出る。
神代はその手を見ず、画面の`部屋`だけを見ていた。
玲央の私的ARで、アゼルの翼状UIが止まった。
「ビィが先に気づいた相手よ。今、NTR-Rへ触れた」
声は玲央のグラスにだけ届いた。
玲央は返事をせず、表示と神代の位置を見続けた。
「四回目。入口側へ戻ってください」
神代が`遠`へ戻る。
四回目も同じ三項目が現れ、新たな実行署名で固定された。終了まで待っても、自由文は現れない。
三回目に異常が出たあとでは、四回目の無表示も距離との関係を比べる結果になった。
「五回目。NTR-Rから一・五メートルの位置へ」
神代が再び`近`へ立つ。
水原が五回目の再生を始めた。
三項目が固定される。
誰も声を出さなかった。
同じ一文が、五回目の三項目の下へ加わった。
[部屋はまだ空いている]
水原は中央実行端末から手を離した。
「予定した五回は、これで終わりです」
水原は実行欄を閉じ、五回分の比較表を読み取り専用へ変えた。




