第11話 猶予の使い方(二)
僕は左手の指輪に触れた。
銀色の下に、灰色の契約痕が隠れている。
研究所を出る前、隣の机にも同じ銀色があった。
牧野が契約者であることを、僕から早乙女に明かすわけにはいかなかった。
僕が決められるのは、自分の契約について話すかどうかだけだった。
「今、返事を待っている人がいるんですか」
「いいえ」
「なら、なぜ今、僕に聞くんですか」
「誰かが待ってから頼めば、断りにくくなるからです」
「僕の話を聞いた相手が、契約を続けたら」
「三嶋さんのせいだとは言いません」
「でも、僕の話が判断に影響した事実は残ります」
「はい。影響しないとは言いません」
早乙女は否定しなかった。
「その重さも含めて、引き受けるかどうかを一件ごとに決めてください。
話したくないことは、話さなくて構いません」
「今は、依頼を受け取るとも言えません」
「分かりました」
早乙女は頷き、そこで口を閉じた。
伏せたスマートフォンにも、水の入ったグラスにも手を伸ばさない。
答えを待っている人がいない以上、早乙女が僕を急かす理由もなかった。
「早乙女さん一人では、だめなんですか」
「すでに連絡を取り合っている人から相談されれば、私も応じます。
でも、私の経験を、契約者の正解だと思ってほしくありません。
同じ契約者でも、迷う場所も、悪魔との距離も違います」
火曜の評価室で、牧野は僕に答えをくれなかった。
アゼルを信じろとも、契約したことが間違いだとも言わず、僕がどこで迷うかを一緒に見てくれた。
正しい答えがなくても、隣にいる人がいれば、悪魔と二人だけで決めずに済む。
右手の親指で指輪をずらすと、灰色の契約痕が半分だけ現れた。
早乙女はそこへ一度だけ目を落とし、何も言わなかった。
「僕は、相手の答えを決められません」
「決めないでください」
「では、依頼だけは届くようにしてください。
返事をするかは、その時に決めます」
「それで構いません」
僕は指輪を元の位置へ戻した。
「もう一つ、MIRAI-09とは別の場所でも、異常なAI応答が見つかっています。
調査は、前にここから電話した国側の担当者を通し、既存の連携経路で進めます。
三嶋さん個人へは頼みません」
「分かりました。会社から指示が来るまでは、僕からは動きません」
早乙女は黒いスマートフォンを取り上げたが、上着へ戻す前に手を止めた。
「もし会社が牧野さんを担当に選んだ場合、三嶋さんの契約について、どこまで話して構いませんか」
「僕が契約者だということまでは、牧野も知っています。それ以上は話さないでください」
「分かりました」
早乙女は黒いスマートフォンを上着の内側へ戻した。
まだ、誰も待っていない。
だから僕は、隠すための指輪を着けたまま、知らない契約者からの声だけは受け取ると決めた。
◇
月曜の朝、僕はいつもどおり研究所の自席にいた。
土曜は、揃いの指輪を着けたまま牧野と皇居外周を一周した。
走り終えたあと、すれ違ったランナーが僕たちの左手を一度見た。
外から見えるのは、揃いの銀色だけだった。
早乙女から聞いた異常AI応答の調査については、会社の業務として担当が決まるまで動かないと伝えた。
牧野もそれ以上は聞かなかった。
日曜は自宅で指輪を外し、第一階梯を十回繰り返した。
十回とも十円玉を机から浮かせ、同じ位置へ戻せた。
正面と横から撮影し、一回ごとに開始位置とのずれがないかを確かめた。
七回目からは浮かせるまでの時間が短くなったが、高さは変わらなかった。
十回目を終えた時、右手には汗がにじんでいた。
第二階梯は、牧野の手から熱を逃がした時に一度使えている。
アゼルには、第二階梯を身につけるなら、まず第一階梯で縁を捉える感覚を安定させた方が早いと言われた。
その日は基礎の反復だけで終えた。
十円玉は、動かしたあとでも元の位置へ戻せる。
人の判断は、そうはいかない。
始業後、古賀マネージャーから一通の業務メールが届いた。
宛先は僕と牧野。件名は「外部安全性評価・アサイン通知」。
会社が参加する九十日間の外部安全性評価に、僕と牧野のアサインが決まった。
MIRAI-09との兼務で、平日日中に社外へ出る場合もある。
今回の仕事の正式名称と外部担当者は、機密情報を扱うための登録を終えた後で開示される。
メールには、火曜午後二時の予定が添付されていた。
予定の件名は「外部安全性評価・条件確認」。
僕と牧野の業務カレンダーへ、そのまま登録された。
その時間は、MIRAI-09の評価予定から外されていた。
少し離れた席で、牧野も自分の端末を見ていた。
僕たちの左手には、同じ銀色の指輪が一本ずつある。
その下にあるものを、会社は知らない。
火曜午後、僕たちはその指輪を着けたまま、異常AI応答の正体を確かめに行く。




