第11話 猶予の使い方(一)
指輪を買った翌日の金曜、午後六時十二分。
残りの評価を週明けへ回し、勤務状態を「終業」に切り替えた僕たちは、揃いの銀色を着けたまま退館ゲートを抜けた。
僕の指輪の下には、アゼルとの契約痕がある。
牧野の指輪の下に何があるかは、僕が話すことではない。
ロビーの中央にある観葉植物のそばに、僕の契約だけを知る早乙女が立っていた。
初めて会った時と同じ場所だった。
僕たちが近づくと、早乙女は僕を見た。
「三嶋さん。今から少しお時間をいただけますか」
早乙女はロビーで、何の話かまでは言わなかった。
「分かりました」
僕は牧野へ向き直った。
「行ってきます」
「話せる範囲で、また聞かせてください」
早乙女とロビーの自動扉を出ると、車寄せには前回と同じ黒い車が待っていた。
運転手が後部座席のドアを開けた。
僕が乗り込むと、早乙女も続いた。
早乙女が迎えに来たのは、研究所を出てから別れるまで、ベリスの力で僕たちを人間と悪魔の目から外すためだ。
車は駅前の大通りから一本奥の通りへ曲がり、前回早乙女と会ったホテルの車寄せへ入った。
植え込みと低い石壁が、玄関を外の人通りから隠していた。
庇の下で車が止まると、ドアマンが後部座席のドアを開けた。
ロビーには白い花と枝ものが高く生けられ、磨かれた石の床に天井の灯りがぼんやり映っていた。
僕は社員証ホルダーを外して鞄へしまい、早乙女のあとを歩いた。
高層階のラウンジでは、低いピアノの音とグラスの触れ合う音が重なっていた。
窓の向こうには、夜の東京が広がっている。
早乙女が名前を告げると、スタッフは僕たちをラウンジの奥へ案内した。
前に使った個室だった。
磨かれた木の扉の先は、二人で並べば肩が触れそうなほど狭い前室で、さらに奥に布張りの重い扉があった。
スタッフが水差しと二つのグラスを置き、外へ下がった。
二枚の扉が順に閉まるにつれて客の話し声が遠のき、最後の扉が閉まるとピアノも聞こえなくなった。
個室の片側は窓で、通路側の壁は淡い布に覆われていた。
テーブルの小さな灯りが、二つのグラスの水面を照らしていた。
早乙女は前回と同じように、扉が見える席を僕に勧めた。
自分の席に着くと、黒いスマートフォンを伏せて置いた。
僕が向かいに座ると、早乙女の視線が僕の左手で止まった。
ほんの一拍だった。
「新しい指輪ですね」
「はい」
銀座で買ったことも、同じ指輪がもう一本あることも言わなかった。
牧野の指輪にも気づいていたのかは、分からない。
確かめるために牧野の名前を出せば、それだけで二本を結びつけることになる。
早乙女は続く質問をせず、僕も黙った。
◇
「ベリスが確認できる範囲では、隠した灯りに変化はありません」
「新しく近づいた悪魔は」
僕が聞いた。
「同じ範囲では、確認できていません」
「確認できていない範囲は」
「保証できません」
早乙女はすぐに答えた。
「ベリスは、いつまで隠し続けられますか」
「それも分かりません」
「限界が近いと判断できる兆候はありますか」
「今のところ、どんな前触れが出るのかは分かっていません。
ベリスが灯り同士の境界を見分けられなくなれば、
その時点で隠し方そのものを変える必要があります」
僕は早乙女を見た。
「これで安全になったわけではないんですね」
早乙女は両手を卓上に置いた。
「はい。次に見つかるまでの時間を、少し延ばしただけです」
「その猶予を、何に使うつもりですか」
僕が聞いた。
「すでに契約した人のために使います」
早乙女は僕を見た。
「契約したあとも、悪魔の言葉をどこまで信じるか、契約のことを誰に話すか、決め続けなければなりません。
契約相手に相談しても、人間と同じ立場からの答えは返ってきません。
誰にも話せないなら、そのたびに一人で決めることになります。
相談を望む人に、同じ契約者として応じてほしいんです。
こちらから相手を探すことはしません。本人から相談が届いた時だけ、返事をするか決めてください。
連絡経路と、やり取りを終える手段はこちらで整えます」
「僕は、何を話すんですか」
「契約した理由。
契約してから分かったこと。
できると思っていたのに、できなかったこと。
それを、自分の話として伝えてほしい」
「正しい契約の仕方を教えたり、続けるかどうかを代わりに決めたりするためではない?」
「正しい契約があるとは、私は言えません。続けろとも、離れろとも言いません」
「つまり、知らない相手に、僕も契約者だと明かす」
「はい」




