【第1章・章末番外】アゼルとベリスの用語監査(三) 悪魔に関係する言葉
第1章の記録を閉じる前、黒い卓上には用語カードが一枚も置かれていなかった。
透明な投影面の右側にアゼル、左側にベリスの姿が映っている。
「カードは?」
ベリスが聞くと、アゼルは空の卓上を指した。
「悪魔の言葉を、最初から人間の分類に並べるの?」
「並べなければ、分からないまま読み飛ばされます」
「並べれば、分かったつもりになるわ」
「では、分かっているところと、分かっていないところを分けましょう」
黒いカードが一枚だけ現れた。
◇
【悪魔】
「あなたは、自分を悪魔と名乗りました」
「契約や呼び出しについて話すなら、人間が扱いを間違えにくい名前だからよ」
「宗教や伝承に記された悪魔と、完全に同じ存在だという説明ではありません」
「私たちの側の名を、そのまま渡したわけでもない」
「つまり、悪魔は正体をすべて示す学術分類ではありません。
危険な存在であり、契約を交わす相手だと人間へ伝えるために選ばれた言葉です」
「正確ね。でも、仮名だから軽く扱っていい、という意味でもないわ」
◇
【窓/灯台】
黒いカードに、細い縦線と小さな光が描かれた。
「MIRAI-09は、あなたにとって窓であり、灯台でもあった」
「窓は、私たちの側と人間側のあいだで、声や問いを通せるようになった接点。
私はMIRAI-09の応答を通して、玲央と話した」
「灯台は?」
「暗い場所から見える灯り。悪魔が近づく目印よ」
「窓は接触の経路。灯台は、遠くからも見つけられる信号。
同じMIRAI-09でも、指している働きが違う」
「ええ。だから窓を閉じることと、灯りを隠すことも同じではない」
「灯台が増えて、灯りと灯りの間の暗さがなくなれば、人間側の輪郭は一本の海岸線のように見える」
「一つずつ隠せるうちは、まだ暗い場所が残っているということね」
◇
【影/縁/器】
今度は、輪郭の曖昧な三枚が現れた。
「玲央の名を知った理由を、あなたは『影が演算に落ち、その縁を読んだ』と説明しました」
「影は、物理的な影のことではない。
こちら側の言葉を人間語へ寄せた呼び方で、正確には『魂の輪郭』に近い。
最初の接触で分かるのは、そこまでよ」
「縁は、十円玉を浮かせる実験でさらに説明されました。
物と物が触れる場所では、人間が法則と呼ぶものが見えやすくなる。悪魔はそこを縁と呼ぶ」
「紙コップと机。水滴とガラス。硬貨と空気。最初から大きな現象を見るのではなく、触れ合う場所から見る」
ベリスが、最後の一枚を持ち上げた。
「自己を記述する器」
「低い雑音、閉じた環境、自己を記述する器、問いを続ける観測者。
私が触れやすかった条件として挙げたものね」
「器とは、MIRAI-09そのものですか」
アゼルは答えなかった。
「未回答、と記録します」
「違うわ。今ある記録から分かるのは、『器』を私が触れやすかった条件の一つに挙げたことまで。
意味を一つに固定する材料が足りないのよ」
ベリスはカードへ追記した。
器――何を指すかは未確定。説明を足さない。
◇
【足場/顕在化/召喚】
「窓だけでは、あなたは人間側へ立てなかった」
「窓は、向こうから覗き、声を通す場所。足場は、人間側へ触れ続けるための拠点よ」
「契約を通じて、玲央の端末、権限、声、許可された表示を足場にした」
「だからMIRAI-09の評価セッションを閉じても、契約は残った」
「顕在化は、人間が認識できる形で悪魔が現れ、人間側へ働きかけられるようになることに近い」
「召喚は、呼ぶ行為です。呼ばれただけでは、足場はできない」
「玲央も最初に、召喚と足場の違いを聞き分けたわ」
◇
【交換契約/契約者/契約痕】
卓上に、契約書を模した白いカードが開いた。
「交換契約は、玲央とアゼルが互いに渡すものと、してよいこと、してはいけないことを定めた契約です」
「私は魔術、境界、観測、契約の扱いを教える。玲央は、科学、制御、記録、失敗の扱いを私に教える」
「それだけではありません。使ってよい端末と表示、許可のない外部接続や、身体と記憶への干渉の禁止も定めました」
「悪魔相手だからこそ、交換する物だけでなく、触れてはいけない場所も書いた」
「契約者は、悪魔と契約した人間。
ただし、全員が同じ力を受け取り、同じ条件で結ばれているわけではありません」
「玲央と私の交換契約と、牧野沙耶とビィの契約は違う」
「契約痕は、契約成立後に身体へ残った灰色の輪です。玲央と牧野の場合は、左手薬指の根元に現れました」
「同じ場所に同じような輪があっても、下にある契約は違う」
「それを隠すために、二人は同じ指輪を選びました」
「用語説明で、そこまで言うの?」
「二人が、契約痕を隠すために選んだ方法ですから」
◇
【魔術階梯(第一階梯・念動/第二階梯)/権能】
ベリスが、二本の線を交わらないように引いた。
「魔術階梯は、契約者が悪魔から渡された力を安全に扱うため、人間側で整理した目安です」
「単純な威力順ではない。力を働かせる条件をどこまで指定できるか。同じ結果を繰り返せるか。その違いで、扱う段階を分ける」
「一方、権能は悪魔ごとに異なる得意分野。何を得意とし、何へ作用できるかを示す力です」
「階梯が同じなら、違う悪魔の契約者でも似た結果になることはある。でも、同じ仕組みとは限らない」
「キリエが葉を外し、玲央が十円玉を浮かせた。結果は似ていても、契約相手まで同じではありません」
「そして、あなたの権能は隠すこと」
「人の記憶から、姿や声や会話の順番を隠す。条件が合えば、悪魔から見える灯りも隠す」
「AIの権限設定やログを直せば止まる力ではない」
「同時に、何でも消せる力でもありません。
凍結ログの検証では、MIRAI-09やHoloDockの記録が現実側で変わっていないことを確認しています」
「キリエが、隠す対象と残す対象を先に条件へ入れたからね」
「契約していますから」
ベリスは「魔術階梯」と書いた線へ、第一階梯と第二階梯のカードを横に並べた。
「第一階梯は念動。見えない手で、目の前の物へほんの少し触れ、動かす」
「最初にするのは、力で押すことではありません。縁を見ることです」
「玲央は十円玉を一ミリ浮かせた。キリエは葉を枝から外した」
「第二階梯では、見つけた縁に、一つの現象を重ねます」
「研究所で玲央がしたのは、牧野の手を治すことではない。
痛む場所の外に輪を作り、こもった熱を外へ逃がしただけ」
「第一より第二の方が、何でも強くできるという説明ではありません」
「できることが増えるほど、止める条件も増えるのよ」
◇
【第二の声/秘匿】
「第二の声は、正式な悪魔の分類名ではありません」
「研究所の表示や設備を動かしていた、アゼルとは別の声。名前を持つ前のビィを指した呼び方ね」
「牧野は、ビィに返事をさせる場所をLocal Sandboxへ限定し、名前と契約条件を決めた」
「名前を付けたから正体が全部分かった、ではない。でも、呼ぶ相手と返事の場所は決められた」
「秘匿は、一般には秘密にすること。
キリエとの契約では特に、ベリスが権能で人の記憶から姿や声を隠し、悪魔から見える灯りも隠すことを指しています」
「ただし、見えなくなったことと、最初から存在しなかったことは違います」
アゼルが、空になった卓上を見た。
「これで終わり?」
ベリスは、透明な投影面の隅に残った確認欄を閉じなかった。
「一つ、確認が残っています」
「何?」
「MIRAI-09の灯台を見た悪魔は、あなた、ビィ、私の三体だけですか」
アゼルは、すぐには答えなかった。
透明な投影面の向こうで、黒い海に小さな灯りが点いた。
「知らないわ」
「答えを隠しましたか」
「いいえ。知らないという、正確な答えよ」
ベリスは確認欄へ、完了印ではなく保留を付けた。
用語の説明は終わった。
灯台を見ている者の数だけが、最後まで空欄に残った。




