第10話 揃いの指輪(三)
定時を過ぎたところで、牧野に声をかけられた。
「三嶋さん。少し、時間をもらえますか」
業務の確認なら、たいていはその場で済む。
定時後に牧野から時間を求められるのは珍しかった。
僕がうなずくと、牧野は小会議室へ向かった。
八人用の机には、僕たち二人しかいなかった。
牧野が扉を閉め、スマートフォンでカナメの同席を切った。
「何かありましたか」
牧野は左手を机へ置いた。
「契約痕の隠し方を、今日決めておきたいです」
薬指の根元には、白いテープの縁から、皮膚と同じ高さの灰色の輪がのぞいている。
ビィと契約してから残った痕だった。
僕の左手にも、同じ位置にアゼルとの契約痕がある。
牧野は左手を机に置いたまま、スマートフォンをこちらへ向けた。
画面には、銀座の店が三つ並んでいた。
石のない五ミリ幅。つやを抑えたプラチナ製。当日持ち帰れる在庫と、今夜の来店枠。
どの候補も、数量欄には二本と入っていた。
「二本?」
「二人分です。揃いにします」
僕は数量欄を見直した。
「僕と牧野さんが?」
「はい。同じ指輪を左手に着けて、婚約したことにします」
指輪で痕を隠すところまでは分かる。
二本を揃えるところから先だけが、一段飛んでいた。
「説明が大きすぎませんか」
「同じものなら、二つの痕を一つの理由で隠せます」
「牧野さんまで、婚約したことになる」
「その前提で提案しています」
「職場の外でも」
「指輪を見られれば、そう答えます。詳細は私事で通します。
悪魔との契約を話すよりは、説明しやすいです」
「比較対象が悪すぎますが……」
僕は画面の二本と、牧野の左手を見比べた。
「僕だけ別の方法を探しても」
牧野は右手の指で、左薬指の灰色の輪を示した。
「私の痕が残ります。三嶋さんだけの問題ではありません」
「僕が断ったら」
「別の方法を探します」
牧野は店の一覧を閉じなかった。
三つの店を調べ、二本ずつの在庫と今夜の空き枠まで確認している。
それでも予約画面へは進まず、スマートフォンを机に置いたまま、僕の返事を待った。
婚約という説明を使えば、牧野も職場の外までその説明を持ち歩くことになる。
僕の痕を隠すためだけなら、負担が片寄りすぎる。
けれど牧野の左手にも、同じ形の痕が残っていた。
手袋やテープは、毎日使えばそれ自体が目につく。
普通の指輪なら、理由を聞かれても契約痕までは見られない。
「牧野さんが、それでいいなら」
牧野が僕を見た。
「私が提案しています」
「分かりました」
牧野は一度だけうなずき、カナメのリングサイズ測定を開いた。
画面に、手を置く位置と撮影する角度が示された。
五ミリ幅のリングを指定すると、左右の薬指を順に映すよう案内が出る。
僕はスマートフォンのカメラへ両手を向けた。
手のひらを返し、薬指を曲げ、もう一度伸ばす。
カナメが左右それぞれの根元と関節の幅を拾った。
牧野は左薬指の側面へ掛かっていた白いテープだけを剥がした。
湿布は手の甲に残したまま、両手を同じ手順で測る。
薬指の根元と関節に、怪我による左右差は出ていなかった。
二人分の結果が、同じ画面に上下で並んだ。
左手は購入号数、右手は試着号数として表示されている。
牧野が二人の号数を店の候補一覧へ入れると、今夜、同じデザインを用意できる店は一つに絞られた。
「今日行くんですか」
「明日、職場で隠すなら、今日です」
牧野は予約画面に、二名、左手の購入号数、右手の試着号数を入力し、予約を確定した。
牧野は鞄から、未開封の伸縮包帯を取り出した。
机の中央を滑ってきた袋を、僕は受け止める。
「僕も巻くんですか」
「試着は右手でします。店に入る前に、それで左手を隠してください」
牧野の左手には、まだ湿布とテープがある。
僕だけ理由の違う包帯を巻くより、二人とも治療中とした方が説明は増えない。
包帯の袋を持ち上げると、中で留め具が小さく鳴った。
「用意がいいですね」
「必要になると思いました」
僕は包帯を鞄へ入れた。
小会議室を出て、入退館ゲートへ向かった。
途中の細長いガラスの向こうは、夕方の青に染まっていた。
湾岸の研究区に、灯りが点々と見え始めていた。
道路脇の誘導灯。
別棟の窓明かり。
海上設備の低い標識灯。
今はまだ、目に見える灯りは一つずつ数えられた。
僕に見えているのは、建物や設備が発する現実の光だけだった。
どの施設でAIが動き、どこに悪魔から見える窓があるのかは分からない。
灯台が海岸線になれば、もう隠せない。
ガラスの外では、点と点の間に、まだ灯りのない区画が残っていた。
その空白が、初めて期限に見えた。
◇
研究区から銀座まで、自動運転車で四十分ほどかかる。
車両へ乗り込む。ドアが閉じると、低い走行音が床下から伝わってきた。
窓の外で研究区のゲートが後ろへ流れ、車両は湾岸の高架へ上がる。
湾岸の高架を離れるまで、窓の外を倉庫と研究棟の灯りが流れていく。
やがて建物の間隔が狭まり、点だった窓の光が面へ変わる。
研究区で見た点と点の間の空白は、都心へ近づくほど狭くなっていった。
研究棟の灯りが遠ざかったところで、僕は尋ねた。
「いつから婚約したことにしますか」
「今日からです」
決めたのは三つだけだった。
婚約したのは今日。詳しいことは私事。式や今後の予定は未定。
今日から、という答えなら、指輪を着け始める日と一致する。
明日、指輪に気づいた人へも、着け始めた日を答えればいい。
交際の始まりや、どちらが申し込んだかまでは作らない。
そこを聞かれても、詳しいことは私事で通す。
職場へこちらから知らせることもしない。
指輪について聞かれない限り、何も話さない。
車両が高架の継ぎ目を越え、座席の下から短い振動が伝わった。
牧野はスマートフォンを膝の上に伏せ、それ以上の説明を足さなかった。
僕は「今日から」と「私事」を、明日聞かれた時の順番で頭の中に並べた。
聞かれていない過去は作らない。覚えておくのは、その線引きだけでよかった。
「支払いは別々にします」
「そこは婚約らしくしなくていいんですか」
「契約痕を隠すための指輪を、贈り物にしないでください」
僕は鞄の中の包帯の袋へ指先で触れた。薄い包装が小さく鳴った。
婚約の経緯を作るより、自分の指輪を選び、自分で代金を払う方が、僕にはずっと分かりやすかった。
車両が都心へ入ると、通り沿いの窓ガラスに車内が薄く映った。
街路灯を過ぎるたび、窓に映る僕たちの輪郭が浮いては消える。
牧野は鞄から新しい白いテープを出した。
湿布を留め直し、薬指の根元へテープを掛ける。灰色の輪は、また見えなくなった。
僕は会議室で渡された包帯の袋を開け、傷ひとつない左手へ巻いていく。
手の甲から薬指の根元まで、白い布を一周ずつ重ねる。
最後の一周で、灰色の輪は見えなくなった。
窓ガラスには、左手を白く覆った僕たちの姿が映った。
事情を知らない人には、二人とも左手を痛めているようにしか見えない。
車両が減速した。
窓の外に、暖色のショーウィンドウが並んでいた。
湾岸の研究区より、人の流れはゆっくりしていた。
ガラスの前で立ち止まり、並んだ品物を見てから動く人がいる。
車両が停車し、ドア脇に降車可能の表示が出た。
僕たちは、婚約者として車を降りた。
◇
牧野が選んだ店は、大通りから一本入った場所にあった。
正面のガラス越しに、白い布張りの台と銀色のリングが見える。
扉を開けると、外の走行音が薄くなり、空調と小さな音楽だけが残った。
「ご予約の牧野様ですね」
店員は牧野の予約画面を確認し、僕たちを奥のカウンターへ案内した。
カウンターを照らす光は評価室より柔らかく、並んだ指輪と僕たちの手を暖かく見せた。
ガラスの下には石のついたものと、装飾のないものが分けて並べられている。
「本日は、お二人のリングをお探しでよろしいでしょうか」
「はい。お揃いです」
牧野は迷わず答えた。




