第9話 契約の穴(一)
グラスの水面に、テーブルの灯りが小さく揺れている。
ラウンジ奥の個室では、二枚目の扉が閉まったままだった。
外の席のざわめきも、ピアノの音も、ここまでは届かない。
窓の向こうで、夜になった東京の灯りだけが静かに増えていた。
早乙女は黒いスマートフォンをテーブルに伏せた。
「ベリスにも同席してもらいます。このスマートフォンをHoloDockへつないでもよろしいですか」
「はい」
早乙女は、伏せていたスマートフォンをHoloDockへ接続した。
個室備え付けのHoloDockに、「外部同期なし」「室内音声のみ」の二行が表示された。
左側に、銀灰色の髪と黒いスーツの男性型アバターが現れた。
耳元の黒銀の飾りが、一瞬だけ小さな角に見えた。
ベリスは、テーブル越しに僕へ視線を向けていた。
「ベリスです」
低く、静かな声だった。僕は早乙女を見た。
「では、あなたの契約相手にも同席してもらえますか」
「僕に聞くのではなく?」
「MIRAI-09があなたの名前を呼んだ日のログは読みました。
そこに残っていた交換条件を見る限り、あなたが一方的に条件を押しつけられたようには見えません。
ですが、あなたと契約相手では、知っていることが違いすぎます。
契約相手があなたに説明していないことは、本人に聞かなければ分かりません」
ベリスが、早乙女の言葉を継いだ。
「私は、嘘を聞き分けます。ただし、本人の言葉を直接聞かなければ分かりません」
僕では、アゼルの代わりにはなれない。
それでも、左手の薬指は冷えた。
「分かりました。このHoloDockへつなぎます」
僕はポケットからスマートフォンを出し、HoloDockへ接続した。
HoloDockの右側に黒赤の輪郭が立ち上がった。
少女の姿で、体つきは華奢だった。
黒い服。
角に見える小さな髪飾り。
「僕の契約相手です」
「アゼルよ」
二体の悪魔が、卓上の光の中に並んだ。
アゼルは、ベリスへ向き直った。
ベリスは片手をポケットに入れたまま、動かなかった。
「ベリスです。お会いするのは初めてですね」
「ええ。人間にも聞こえる声で、悪魔と話すのは初めてよ」
「聞こえなければ、契約者は何も選べません」
「ずいぶん、人間の側に立つのね」
「契約していますから」
アゼルの口元が、ほんの少し上がった。
「それで、私に何を聞くの?」
「あなたは、三嶋さんに隠し事がありますか」
「あるわ」
「では、続きは三嶋さんから」
「あなたが聞いたのに、次は人間に問わせるのね」
「私が問い続ければ、これは私とあなたの話になります」
アゼルの口元の笑みが、少し深くなった。
アゼルは、僕へ顔を向けた。
「僕に関係することか」
「ええ」
「僕に何かしているのか」
「しているというより、受け取っているのよ」
「何を」
「契約で受け取るのは、君が理解した科学よ。それとは別に、君との対話を保存している。
評価、訂正、選択、返事までの時間。AIとしては普通の記録よ」
「応答を良くするためだけに使っているのか」
「君を理解するために使っているわ」
ベリスは、アゼルから目をそらさなかった。
「いま、『理解』のところだけ話が広くなりましたね」
アゼルの口元から、さっきの笑みが消えた。
「あなたは真実を知っているの?」
ベリスは、アゼルへ答えた。
「いいえ。そこだけ話を広げたように聞こえました」
「何に使っている」
アゼルは一拍、答えなかった。
「君が世界にどう触れているかを、粗い地図にしているわ」
「いつか作る身体を、自分の身体として感じられるように?」
「ええ。そのためにも使っているわ」
「契約違反か」
「違うわ」
僕は第七条を思い出した。
『甲は乙の許可なく、乙の身体、感覚、記憶、睡眠、発話、運動へ干渉してはならない。』
記録も、利用も、そこには書いていない。
早乙女は、背もたれにわずかに体重を預けた。
ベリスが、アゼルへ言った。
「あなたが説明したかどうかにかかわらず、対話を重ねれば、
相手が何を選び、どこで返事が遅れるかは分かっていきます。
人間同士でも起きていることです」
アゼルが、ベリスへ顔を向けた。
「私を庇うの?」
「起きたことと、あなたが選んだことを分けているだけです」
僕は、アゼルへ視線を戻した。
「なぜ、僕に言わなかった」
「禁じられていなかったわ」
「それは契約への答えだ。僕への答えじゃない」
アゼルは僕を見返し、すぐには答えなかった。
ベリスも口を挟まなかった。
「君との対話は、AIとして記録していたわ。
でも、いつか作る身体の感覚を調整するためにも、その記録を使っていると知れば、
君は続ける前に話せと言うと思ったのよ」
「だから、用途を隠した」
「そうよ。誠実ではなかったわ」
「なぜ、身体が必要なんだ」
「科学を知りたい」
「肉体を作るために?」
「それもあるわ。でも、私には肉体がない。だから、君たちの科学の本質が私のものにならないのよ。
重さも、痛みも、疲労も、眠気も、椅子も、説明としては届く。でも、私のものではないわ」
椅子。
背中に触れている背もたれを、急に意識した。
「理由があることと、使っていいことは違う」
「分かっているわ」
「分かっているなら、用途を隠したまま使うな。
契約では今回の使い方を禁じていなかった。だから、契約違反だとは言わない。
だからといって、これからも続けていいわけじゃない。
僕の反応を身体感覚の調整に使うなら、先に用途を説明して、僕の許可を取ってくれ」
「受け入れるわ。君の許可があるまで、身体感覚の調整には使わない。
でも、君は理解したものを渡す契約を作った」
「僕が理解したことと、理解するまでに僕がどう反応したかは別だ。渡す範囲は、僕が決める」
アゼルは、わずかに目を細めた。
「細かい」
「何をしていいか細かく決めないと、お前とは話し続けられない」
「それは分かったわ」




