第8話 契約者は一人ではない(四)
キリエはグラスに触れた。
飲まない。
指先で、位置だけを少し直す。
「車の中で、AIにどこまで任せ、どこで人間が止めるかを話しましたね」
「はい」
「契約者が扱える魔術と、悪魔自身の力も、分けて考える必要があります」
同じ現象に見えても、前者は契約者が再現する魔術で、後者は悪魔に固有の作用だ。
区別できなければ、何を契約で縛るべきかを間違える。
「どう分けるんですか」
「魔術階梯と、権能です」
キリエは、そこでようやく水を一口飲んだ。
「魔術階梯は、契約者が悪魔から渡された力を安全に扱うため、人間側で整理した目安です」
「ガイドラインのようなものですか」
「近いです。何を条件にできるかと、同じ結果を繰り返せるかで、扱う段階を分けます。威力の大きさとは別です」
「ロビーで私が葉を取ったのは、第一階梯です」
日曜の机で、十円玉が一ミリ浮いた瞬間を思い出した。
「悪魔が違っても、同じようなことができるんですか」
「似た結果になることはあります。ただ、仕組みまで同じとは限りません。階梯は、契約者が扱う側から見た分類です」
「では、権能は」
「悪魔ごとに違います」
キリエの声が、少し低くなった。
「その悪魔が、何を得意とするか。何を曲げられるか。どこに穴を開けられるか」
「契約者は、それを知っているものなんですか」
「知らされていれば、です。知らされていなければ、契約者が気づかないまま、悪魔が権能を使うこともあります」
「車の中で話したAI市場は、ここにつながります。企業がAIに任せる範囲が広がるほど――」
ビィは、MAI-3も建物側の補助AIも経由していなかった。
MAI-3の表示先や、建物側の補助AIが扱う設備へ、外から直接触れていた。
僕はキリエの言葉を継いだ。
「AIそのものではなく、AIがつながったシステムへ直接触れられること」
「……続けてください」
僕は、ビィの事例をキリエの説明に重ねた。
「入力か実行先を変えれば、AIは変更後の状態から処理を続ける。モデル監査では見つかりません」
キリエが、条件を一つ足した。
「ただし、どの悪魔にもできるわけではありません。
状態を書き換えられる悪魔なら、複数の金融機関が参照する企業の信用指標を下げられる」
僕は、書き換えられた評価が各社へ渡る先を追った。
「融資AIが与信枠を縮め、保険AIが料率を上げ、投資AIが売りを出す。
そこで動いた株価と資金調達条件は、次の信用評価の入力になる」
嘘なのは、最初に変えられた信用指標だけだ。
そこから生じた与信縮小、保険料の上昇、株価の下落は、実際に成立した取引として残る。
次のAIは、その結果を新しい危険の証拠として読む。
キリエはわずかに目を見開き、それから笑った。
「理解が早いですね」
僕はうなずいた。
「元の書き換えを戻しても、取引結果は消えない。
大手一社なら、悪魔一体でも市場を揺らせます」
キリエが続けた。
「しかも、複数のAIと担当者が誤った評価を共有する。市場からは、全員の判断が一致したように見えます」
外から見れば、銀行、保険会社、投資家が、同じ信用低下を確認したことになる。
実際には、一つの信用指標を全員が共有しただけだ。
「介入が、合意として残る」
「ええ。融資審査も保険料改定も売買記録も、攻撃の跡には見えない。それが隠れ蓑になります」
「そこへ、悪魔ごとの権能が重なる」
「認識や記憶へ作用する権能なら、その場では見えていても、あとから思い出せないことがあります。
ログが残っても、本人の証言と照合できません」
証言が欠ければ、調査する側へ渡るのは、AIと周辺システムの記録だけだ。
「モデルか、接続先の不具合として調べることになる」
キリエはうなずいた。
「そうです。AIの権限を絞る。ログを増やす。モデルを替える。それでも、権能は止まりません」
「ログに残れば、人間かAIの操作として記録される。残らなければ、入力漏れか記憶違いで報告書が閉じられる。
どちらでも、介入した悪魔には辿り着けない。その記録だけが、次の市場判断に残る」
「ええ。融資、投資、保険料、買収価格、技術標準の採否まで、正規の記録を前提に動きます」
キリエは僕を見た。
「私の悪魔の名は、ベリス。権能は、隠すことです。ロビーでは、お二人を対象から外していました」
「……僕たち以外は、あとであなたを思い出せない、とでも?」
「ええ。その場では普通に見えますし、話した内容も覚えています。
けれど、あとで思い返そうとしても、私の姿も声も、会話の順番も残っていません」
ロビーでは、周りの人も、僕と同じようにキリエを覚えていると思っていた。
違っていたと知って、遅れて怖くなった。
「便利ですね」
僕は言ってから、まずいと思った。
「便利だと言い始めた時が、いちばん危ないんです。
隠す力は、人を守る一方で、目撃者から証言を奪います。記録が残っていても、誰が何を見たか確かめられなくなる」
「あなたは、どちらをしているんですか」
「両方です。だから、私が優位に立っていることは隠しません」
ずるいと思った。
正直に言えば許されるわけではない。
それでも、何を隠しているのか分からない相手よりは、向き合いようがあった。
「なぜ僕に会いに来たんですか」
「MIRAI-09の外部レビュー資料に、預け入れ担当者としてあなたの名前がありました。
それだけなら、業務連絡で済ませています」
キリエはグラスに触れず、水面に目を落とした。
「ベリスに、MIRAI-09を直接探らせました。研究所の許可は取っていません。
そこで、MIRAI-09があなたの名前を呼び、通常の評価から外れた応答を始めた日のログを見つけました」
「それで、僕が契約者だと?」
「資料から分かったのは、あなたの名前までです。
調査会社に確認を頼み、写真に写った左手薬指の痕を私が見分けました」
「探偵を使ったんですか」
「はい」
左手の薬指が冷えた。
「ほかの契約者も、同じやり方で探しているんですか」
「いいえ。調査会社に頼んだのは、あなたの確認だけです。
契約者を探すところから任せれば、名前と場所が一か所に集まる。それ自体が、契約者を探す地図になります」
人間なら記録を照合できる。
AIなら、大量の資料から人名と場所の組み合わせを拾える。
そうした情報を、権能で辿れる悪魔もいる。
「契約の力は、本人から切り離せません。
企業がその力を前提に業務を組めば、契約者が抜けた時に何が止まるかまで分かります。
投資家は企業価値を見直す。
買収する側や国家は、契約者本人を確保しようとする」
契約者は、本人の意思とは関係なく、企業を動かす鍵として値をつけられる。
「それを、なぜ僕に教えるんですか」
「孤立した契約者が、悪魔だけを相談相手にしたまま、企業や国家に囲われるのを防ぎたい。
正式な面会にしなかったのも、あなたを指名した理由を、研究所とQuanta Veilの両方に残さないためです」
「早乙女さんは、僕をどうしたいんですか」
「仲間に引き入れたい」
「契約者を増やすために?」
「いいえ。新しい契約を勧めるつもりはありません。
すでに契約した人間を、孤立させたくないだけです」
「早乙女さんは、見せたいんですか。隠したいんですか」
「どちらもです。矛盾はしています。私は勝手に現れ、場所も、話す範囲も決めました。
信じろとは言いません。ただ、あなたが選ぶために、目的だけは隠しません。今夜の返事も求めません」
返事を求めないと言いながら、キリエは席を立たなかった。




