第8話 契約者は一人ではない(一)
翌日も、MIRAI-09評価室は開いていた。
前日の表示と設備の件について、施設管理から短い周知が来ていた。
MAI-3の一部出力は、施設管理の担当者が確認してから表示する。
建物UIから設備への操作指示も、担当者が確認してから送ることになった。
MIRAI-09の評価予定も変わらなかった。
牧野の左手の甲には、湿布が一枚貼られている。
白いテープが薬指の根元を少し隠していた。
顔色は戻ったが、長い文章だけは自分で打たない。
牧野が内容を口頭で伝える。
カナメが文案を並べ、牧野は右手で確認キーを押す。
> 未同定応答主体B:許可範囲を確認中。
「表示名はビィで」
> 表示名「ビィ」を採用しますか。
「表示名だけ。分類名にはしません」
> 表示名:ビィ。分類名:未同定応答主体B。
牧野は、そこで一度だけ息を吐いた。
作業画面には、ビィを扱う時の条件が表示されている。
設備を動かさない。
ビィの知らせを、許可の代わりにしない。
表示はLocal Sandboxの画面と端末本体の通知窓に限る。
判断材料にするかどうかは、確認者が決める。
ビィという名前の下に、かわいげのない項目が並んでいた。
確認者欄へ自分の名前を入れた牧野は、前日から動かし続けていたLocal Sandboxのウィンドウを開いた。
外部ホロドック出力なし。
音声出力なし。
設備連携なし。
画面の左下に、白い余白ができる。
そこへ、ビィが現れた。
小さな男の子に見える。
黒い髪が頬にかかり、黒いフードの裏地に濃紺がのぞく。
小さな身体が、画面の中でかすかに揺れる。
それなのに、灰色の目の据わり方だけが妙に牧野に似ている。
僕が口に出す前に、牧野がこちらを見た。
「今、似ていると思いましたね」
「まだ何も」
「顔に出ています」
ビィは、こちらの会話に反応したのかどうか分からないまま、画面の端で一度だけ瞬きをした。
午後いっぱい、ビィはLocal Sandboxの中にいた。
かわいく見える。
見えるだけだ。
牧野は一度も、その見た目を理由に条件を緩めなかった。
十七時二十九分。
カナメが終業前確認を出した。
> 本日の予定タスクは完了しています。
「残件は」
> 明日扱いに移した項目が三件あります。緊急度はいずれも低。
「では、今日は予定どおり終わります」
牧野は小型端末を開いたまま、Local Sandboxの画面を確認した。
左下のビィのアバターが、一度だけ瞬きをする。
それを見てから、牧野は端末を閉じた。
画面は消えたが、端末本体はスリープに入らない。
Local Sandboxも動き続ける。
閉じた端末の外側には、細い通知窓がある。
「それ、電源は」
「入れたままです。こちらから約束を破る理由はありません」
牧野は端末を右手で持ち直した。
Local Sandboxを終了すれば、ビィはまた別の場所でいたずらを始める。
だから、起動したまま端末ごと持ち歩く。
「ビィから何か来たら」
「外側の通知窓に一行だけ出ます」
牧野は上着を羽織る。
僕も鞄を持った。
スマートグラスはケースに入れたまま、内ポケットの奥へ押し込む。
今日はこのまま帰る。
駅まで歩いて、いつもの改札を通って、途中で牧野と別れる。
僕は鞄の持ち手を握り直し、牧野のあとを追った。
◇
エレベーターは、いつもより静かだった。
定時直後の研究所は、人の流れが一方向になる。
バッグを肩にかけた研究員。
支給端末を片手に持ったレビュー担当者。
来館証を首から下げた外部業者。
誰も急いではいないのに、全員が少しだけ出口へ傾いている。
牧野は僕の半歩前に立っていた。
左手をかばうように、小型端末を右手で持っている。
外側の通知窓は僕からは見えない。
一階に着く直前、牧野の手の中で端末が短く震えた。
通知音は鳴らない。
牧野が通知窓を見る。
眉が、ほんの少しだけ動いた。
「何か出ましたか」
「短いです」
扉が開いた。
エレベーターホールの光が、床へ流れ込んでくる。
僕たちはエレベーターを降りた。
入館ゲートへ向かう人の流れに乗る。
牧野は歩きながら、端末の外側を僕の方へ少しだけ傾けた。
> いる。
> かくすひと。
> てきじゃない。
それだけだった。
入館ゲートを抜けて、ようやくロビーが見えた。
僕は、まずロビーの中央へ目を向けた。
人の頭。
案内表示。
受付カウンター。
待合席。
観葉植物。
普通のものしか見えない。
ロビーは、いつもどおり明るかった。
受付カウンターの横では、来訪者用のHoloDock miniが案内AIを映している。
窓際の待合席では、外部業者らしい二人が、自分たちの端末を挟んで話していた。
待合席の端にある小さな灯りが、淡く点いている。
誰でも入れる場所だった。
研究フロアではない。
機密区画でもない。
受付に用事がある人も、ただ迎えを待つ人も、カフェへ抜ける人も通る。
その中央に、大きな観葉植物が置かれている。
艶のある濃い緑の葉が、天井の照明を薄く返していた。
鉢の縁には、白い小石が敷かれている。
そのそばに、女の人が立っていた。
黒に近いチャコールのパンツスーツ。
白より少し柔らかい、アイボリーのブラウス。
栗色の髪は、手間のかかった形で上品にまとめられている。
片手には、黒いスマートフォン。
もう片方の手は、自然に腰へ添えられていた。
小さなピアスと腕時計だけが、控えめに光っている。
天井から落ちる光が、スーツの肩と栗色の髪の輪郭だけを明るく縁取っていた。
僕たちが近づくと、彼女は迷わずこちらを見た。
「三嶋玲央さんですね」
「……はい」
「Quanta VeilのCEO、早乙女キリエです」
Quanta Veil。
その名前を聞いた瞬間、牧野の足が止まった。
「今日は、正式な来訪ではないようですね」
牧野が言った。
声は低い。
「はい。研究所への来訪ではありません。ロビーは誰でも入れる場所ですから」
「目的は」
「三嶋さんに話があります」
「研究所の業務に関係する話ですか」
「外部レビューの話ではありません。三嶋さん個人に話があります」
牧野が、僕の隣へ並んだ。
「三嶋さんだけに話す理由は」
「契約の話だからです」
左手の薬指が、冷えた。
「あなたの契約について話があります」
キリエは観葉植物へ目を向けた。
指を近づける。
触れない。
葉の先が、一ミリだけ持ち上がった。
僕は息を止めた。
日曜の机の上の十円玉を思い出す。
押すのではなく、縁へ手をかける。
力ではなく、触れる場所を決める。
葉の付け根が、音もなく外れた。
一枚だけ、まるで誰かがそっと摘んだように、キリエの手のひらへ落ちる。
僕と牧野は、手のひらの葉を見ていた。




