第8話 契約者は一人ではない(二)
キリエも、十円玉を動かしたのと同じ力を使った。
なら、この人も契約者だ。
僕が悪魔と契約していることを知っている。
「あなたも、契約者なんですね」
自分の声が、思ったより小さかった。
「はい」
キリエは顔を上げた。
「契約者は、あなた一人ではありません」
それを告げても、キリエの視線は僕から外れなかった。
牧野の手にある端末へは、一度も向かなかった。
牧野も、それに気づいたらしい。
牧野は僕を見た。
「三嶋さんは、行きますか」
僕はキリエの手のひらの葉を見た。
触れずに外れた葉。
日曜の机の上で、縁を取られた十円玉。
そして、契約という言葉。
「行きます」
「……分かりました」
キリエは摘んだ葉を、鉢の縁へ戻した。
白い小石の上に、濃い緑が一枚だけ置かれる。
「では、行きましょう」
◇
研究所の車寄せは、ロビーの自動扉を出てすぐ左にある。
ガラスの庇が長く伸び、柱の根元には雨水を切る細い溝が走っている。
夕方の光はもう青く、庇の下だけが建物の照明で白く浮いていた。
タクシーを待つ人、迎えの車に乗る人、警備員に来館証を返す外部業者。
仕事が終わったあとの車寄せは、どこか空港の端に似ている。
車寄せのいちばん奥に、黒い車が停まっていた。
リムジンと呼ぶほど長くはない。
けれど、普通のセダンより明らかに長い。
車体の黒は、ただ黒いのではなく、庇の白い照明を細い線にして映し込んでいた。
ボンネットにはロビーのガラス扉が歪んで映り、サイドのクロームには夕方の青が薄く差している。
窓ガラスは黒く、庇の光だけを返して、車内を見せなかった。
けれど下品な暗さではなく、ホテルの入口に置かれた厚いカーテンみたいに、外と内を静かに分けていた。
運転手が外へ出て、後部座席のドアを開けた。
運転手の指が、ドアの縁を静かに押さえる。
金属音も、芝居がかった会釈もなかった。
「どうぞ」
キリエは乗らず、僕を先に入れた。
僕が後部座席へ入ると、キリエも続いた。
自動扉の向こうには牧野がいて、研究所の警備員も見えた。
運転手が外からドアを引いた。
重い音がして、外の音が切れた。
車内には、革と木の匂いがした。
新車の匂いではない。
手入れされた革の、少し乾いた匂い。
肘置きの木目は暗く、触れると冷たい。
足元のマットは厚く、靴底の音を吸った。
ドアの縁に細い光が走っている。
青でも紫でもない、ほとんど白に近い淡い光だった。
僕は鞄を膝に置こうとして、角が革の座席に触れそうになり、引き上げた。
足元へ下ろしかけたが、厚いマットを見て手を止めた。
結局、膝の上で両手で抱えた。
キリエは反対側に座った。
足元へ一度も目を落とさず、すぐに背もたれへ体を預けた。
「緊張していますね」
「こういう車に乗ることがないので」
「私も、最初はそうでした」
「今は、平気なんですか」
「慣れました。緊張している顔を、商談相手に見せるわけにはいきませんから」
車が静かに動き出す。
研究所の建物が、窓の外で後ろへ流れた。
防音ガラスのせいか、外の音が一段遠い。
信号で止まっても、隣の車のエンジン音はほとんど入らない。
代わりに、ウインカーの柔らかい音と、タイヤが路面の継ぎ目を越える低い振動だけが残った。
「少し、仕事の話をしましょうか」
「仕事ですか」
「先月の企業AI市場見通しです。市場を九つに分けた、あの資料」
企業のAI支出と依存先を、九つの市場に分けて分析するレポートだ。
2020年代後半は、大規模言語モデルそのものの賢さと、動かす費用が競争の中心だった。
2030年代前半、AIは社内情報、申請、発注へつながり、答える道具から仕事を進める仕組みへ変わった。
2030年代後半には一部のAIが企業間取引まで担い、止め方、戻し方、事故の損失を誰が負うかも商品になった。
市場の話になって、初めて自分の呼吸が浅かったことに気づいた。
契約の話よりは、AI市場の方がまだ足場がある。
「読みました。指標の付録まで」
市場レポートを読む時は、予測の数字より先に、その数字を作った分類を見る。
市場の境界に何を含め、何を外したかで、一つの支出から別の結論が出るからだ。
「あの資料で、最初に引っかかったのは」
「推論容量です」
基盤モデルの利用料と、計算資源の費用をまとめた区分だ。
予約容量や処理する地域の指定も含まれる。
キリエは、先を促すように少しだけ顎を引いた。
「集計の境界ですか。依存先ですか」
「依存先です。計上は一度でいい。でも、モデル供給と推論基盤は別に追うべきです」
「切り替える時に確かめることも違う」
「はい」
推論基盤を替えるなら、処理地域、遅延、実行条件を確かめる。
モデルを替えるなら、同じ入力への答え方と失敗の仕方を試験し直す。
支出を一度だけ数えることと、依存先を一つとみなすことは別だった。
キリエが、ほんの少し笑った。
「そこを最初に見るんですね」
「研究者なので」
「経営者は、まとめて安く買えるかも見ます」
「安く見える、ですね」
キリエの笑みが、少し深くなった。
「その通りです。モデル編成の比率が下がる、という予測はどう見ましたか」
モデル編成は、業務ごとに使う基盤モデルを選び、評価し、必要なら切り替えるための費用だ。
資料は、その費用が企業のAI支出に占める割合は下がると予測していた。
「標準的な会話や要約なら、下がると思います。研究用途では、そこまで下がらない」
「モデルを替えるたびに、失敗条件まで試験し直すから」
「はい。モデル自体の差は残ります」
「でも、モデルだけでは価格を守りにくくなる」
「そう見ます」
モデル選びの市場は残る。
ただ、標準的な仕事では、どのモデルが一番賢いかより、別のモデルへ替えても仕事を続けられるかの方が重くなる。
キリエは、僕の見方を確かめるように問いを重ねた。
「では、モデルの性能差が縮んだあと、企業は何に払うと思いますか」
「AIにどこまで代理させるかです。権限、統制、責任帰属、損失負担」
権限と統制は、AIが実行してよい範囲と、人間が止める場所を決める。
責任帰属と損失負担は、AIの判断を誰が説明し、事故の費用を誰が払うかを分ける。
「その通りです。保険で移せるのは損失だけ。AIの判断を誰が説明し、誰が是正するかは残ります」
ひとつのAIサービスとして売られていても、契約上の役割は一つではない。
何を許すか、誰が止めるか、誰が誤りを直すか、誰が損失を払うかで、引き受ける相手が変わる。
「だから、一つの商品でも、契約条件を分ける必要があります。
ただ、利用料だけでは企業の負担は見えません。総経済負担まで見ないと」
膝の上の鞄を、抱え直す余裕もできた。
総経済負担は、利用料に、社内で必要になる人件費と設備費、周辺の運用サービス費まで加えた総額だ。
出力の確認、例外処理、再訓練、モデル更新後の再試験、事故後の復旧演習も含まれる。
「そこまで読んだんですね」
「サマリーで納得できないと、定義まで見ます」
「レポートが嫌いな人の読み方です」
「好きではありません」
僕が答えると、キリエはまた少し笑った。
「なら、例外承認者の値段も見ましたね」
「人の値段というより、その判断を再現できるようになるまでの値段ですね」
AIが通常処理できない案件で、何を根拠に、どこまで任せるかを決める。
後任に承認権限を付けても、その判断基準までは移らない。




