第7話 第二の声(五)
会議室入口の表示も、照明も動かなかった。
その瞬間、台座の上のアゼルが、ほんの少し揺れた。
言葉が出ない。
輪郭だけが乱れる。
「アゼル」
僕が呼ぶと、遅れて返事があった。
「あれは、あの人間を恐れていない。
むしろ気に入っている」
牧野はうなずきもせず、契約を書いた紙を見ている。
「畏れているのは、私の方よ」
僕は一瞬、声に詰まった。
牧野は、そこで少しだけ目を上げた。
アゼルは続けた。
「先に呼び名を決められ、返事をしていい場所を決められた。
姿を決める前に、何をしていいか決められた。
あの手合いに対して、それをする人間は少ない」
僕はしばらく、声を出せなかった。
自分が理解するために時間が要った。
牧野は、アゼルの言葉をそのまま契約には残さなかった。
名称欄の下の一行へ、もう一度目を落とす。
『姿は後
先に役割』
Local Sandboxには、新しい文字は出ていない。
◇
牧野は設備窓口に、昼休みに起きた表示と設備動作の不具合として連絡した。
小会議室入口のタッチパネル。
集中ブース入口の利用表示。
ブラインド。
空調。
カフェの混雑表示。
周囲の研究員には、それでいったん話が通った。
表面だけ見れば、昼休みの小さな設備トラブルだった。
少なくとも今日の午後だけは、会議室入口のタッチパネルだけで空室と判断せず、部屋を使う前に人が室内を確認する。
ブラインドと空調も、必要があれば担当者が確認してから動かす。
牧野は、近くの整形外科を探して行くことになった。
廊下の向こうで、昼休みの声がまた戻り始めた。
MIRAI-09評価室の机には、カナメの一覧とは別に、ビィとの契約を書いた紙と、中止条件を書いた紙が残った。
かわいい名前と、かわいくない条件が同じ机の上に並んでいる。
ビィ。
短い名前だ。
けれど、牧野が机に残したのは名前だけではない。
小型端末ではLocal Sandboxが開いている。
契約には、実際の扉や照明では返事をしないことまで書かれている。
僕はHoloDock Proの投影面を見た。
アゼルはまだ台座の上にいた。
「アゼル」
「何」
「牧野さんは、契約者になったのか」
アゼルはすぐには答えなかった。
牧野の小型端末では、Local Sandboxのウィンドウだけが開いたままだ。
「なったわ。
ただし、君と同じ契約者ではない」
「同じではない」
「力を受け取る契約ではない。
情報を先に受け取り、返事の場所を縛る契約よ。
情報も力に近い」
牧野は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「情報だからといって、力として扱わないでください」
「言葉の問題?」
「運用の問題です。アゼルさんにも、三嶋さんにも、私にも」
その言い方は、痛みをこらえる声ではなかった。
便利さに引っ張られる前に、自分を止める声だった。
牧野は契約の最後にこう足した。
『ビィが先に気づいたことは、まず言葉で知らせる。
知らせは、命令でも許可でもない。
こちらが確認するまで、人も設備も動かさない。』
ビィの声はしない。
けれど、牧野の小型端末のLocal Sandboxに、短い文字が出た。
> つかう、だめ?
牧野は小型端末を見たまま答えた。
「確認するまで、使いません」
それ以上、返事は続かなかった。
僕が投影終了を選ぶと、アゼルの姿と声は消えた。
透明な投影面が畳まれ、丸い台座だけが残る。
僕は、HoloDock Proの台座と、評価端末と、牧野の小型端末を順に見た。
悪魔がAIの出力に紛れ込む。
それはもう知っていた。
でも、今日分かったのは、それだけではない。
AIの使い方に役割があるように、悪魔との関わり方にも役割ができてしまう。
アゼルは僕の問いと契約に応じる。
ビィは牧野のLocal Sandboxでだけ返事をする。
ビィの言葉は、確認するまで、ただの言葉として扱う。
カナメは、そのどちらでもなく、牧野が見た表示や反応を、あとで見返せるように整理する。
混ぜたら、誰が何に返事したのか、もう分けられない。
牧野は、二枚の紙をクリアファイルへ戻す前に一度だけ手を止めた。
「三嶋さん」
「はい」
「今日のことは、解決ではありません」
「はい」
「止まったのではなく、止まる条件を一つ決めただけです」
僕は、牧野の小型端末に残っている、日曜の一時メモとカナメの一覧を見た。
日曜の録画確認。
昼休みの表示や設備動作。
どれも、まだ同じ出来事としてまとめない。
その並びに、Local Sandboxに出た文字と、ビィという名前が加わる。
「それでも、ないよりはましです」
牧野はそう言って、右手で二枚の紙をクリアファイルへ差し込みかけた。
痛めた左手は、クリアファイルの端を軽く押さえているだけだった。
その薬指の根元には、灰色の細い輪が一周していた。
透明な縁が重なっても、影には見えなかった。
普通の研究所の午後の音が、扉の向こうで戻っている。
人の声。
コーヒーマシンの音。
会議室の扉が閉まる音。
低い空調。
さっきまで、その同じ午後の中で、ブラインドが動き、空調が強まり、表示がずれた。
今は何も起きていない。
止まったのか、僕たちが見ていないだけなのかは、まだ分からない。
牧野は小型端末を閉じず、Local Sandboxのウィンドウだけを最小化した。
見えなくしただけで、消したわけではない。
ビィの知らせを、そのまま合図にしない。
そのいつもの音の中で、クリアファイルに半分入った契約の端に、最後に足した言葉が見えていた。
『こちらが確認するまで、人も設備も動かさない。』
まだ何にも使っていない。
けれど、受け取った時の扱いだけは決まってしまっている。




