第7話 第二の声(四)
最後の一行を書いた時、アゼルの輪郭がまた少し揺れた。
「そこまで入れるの」
「入れます」
牧野は即答した。
「表示や空調だけではありません。
人が自分で選ぶ前に、表示や風で動きが変わるなら、それは止める条件です」
僕は評価端末を見た。
そこにも短い文字が出た。
> えらべない、だめ。
「はい。だめです」
◇
牧野は、名称欄の下にはまだ何も書かない。
評価端末の入力欄。
牧野の小型端末のLocal Sandbox。
紙の中止条件。
その三つが机の上に並んでいる。
アゼルが言った。
「今なら、呼び名を決められる」
「名前ですか」
「本名ではない。
人間側で扱える役割に結びつける名よ」
牧野は少しだけ考えた。
その間、評価端末側には何も出なかった。
入力欄は空欄のまま。
小型端末では、Local Sandboxのウィンドウが開いたままだ。
それだけなのに、僕は返事を待つ時と同じ息の詰め方をしていた。
「このLocal Sandboxの中で呼ぶ名前です」
牧野は右手で、名称欄にゆっくり書いた。
『ビィ』
それから声に出す。
「ビィ」
短い文字は、まず評価端末側に出た。
> びい。
ひらがなだった。
> みじかい。
「短い方が、ここだけの呼び名にできます」
> びい。
今度も、文字は評価端末側に出た。
牧野の小型端末のLocal Sandboxには、まだ何も出ない。
会議室の照明は変わらない。
空調も変わらない。
ブラインドも動かない。
何も変わっていないことを確かめて、僕はようやく息を吐いた。
アゼルが短く言った。
「始まったわね」
「何が」
「縛り」
牧野は少しだけ顔を上げた。
「縛ったつもりはありません。返事をしていい場所を決めたんです」
「悪魔にとっては近い」
アゼルの返事は速かった。
牧野は右手で、名称欄の横に小さく足した。
『返事の場所
端末内のLocal Sandbox』
「縛りとは書きません」
アゼルは黙った。
> すがた?
評価端末側に出た。
牧野は首を横に振る。
「まだ要りません」
> なんで。
「先に役割です」
名称欄の下に、一行が足される。
『姿は後
先に役割』
ビィは、返事をしなかった。
小型端末のLocal Sandboxにも、新しい文字は出なかった。
◇
牧野は右手で、クリアファイルから新しい紙を一枚引き出した。
その上に、表題をゆっくり書いた。
『ビィとの契約』
表題に、契約という言葉が入った。
力をもらうためではない。
返事をする場所と、知らせる義務と、止まる条件を決めるための契約だ。
牧野は一行ずつ読む。
「一。ビィは、牧野が指定したLocal Sandboxの中でだけ返事をする。
実際の扉、照明、空調、ブラインド、予約表示には出さない」
> せまい。
「狭いままにはしません。
Local Sandboxの中に、返事をしていい場所を増やします」
> ばしょ。
「画面の中だけです。
今は通路と点だけですが、部屋や出口も作れるようにします。
触っていいものと、触ってはいけないものも分けます」
> あそぶ?
「遊んでいい場所は作ります。
でも、外の扉や照明では遊びません」
> はい。
その「はい」は軽かった。
約束の意味を理解したのか、遊べる場所が増えることだけに反応したのかは分からない。
「二。人がどちらへ進むか、どこを見るか、何を選ぶかに、許可なく触れない」
> さわらない。
「三。痛み、転倒、こぼれること、怪我、停止要求を、遊びの反応として扱わない」
> いたい、だめ。
「四。ビィが私たちより先に何かに気づいた時は、勝手に動かさず、言葉で知らせる」
> さき。
「五。知らせたことは、許可ではない」
ビィは黙った。
その沈黙が一番長かった。
> いうだけ。
「はい。言うだけです」
「この条件で、契約します」
> うける。
牧野の左手が、机の端で止まった。
痛みで止めた動きではない。
左手の薬指の根元に、灰色の細い輪が一周していた。
指輪はない。
傷もない。
光ではなく、影でもない。
僕は思わず、自分の左手を見た。
契約の後に残った、あの輪と同じだった。
机の上には、牧野の小型端末、二枚の紙、評価端末が並んでいた。
小型端末には、カナメの一覧とLocal Sandboxのウィンドウが開いている。
二枚の紙には、中止条件とビィとの契約が残っている。
評価端末は、呼びかけに使っただけだった。
◇
その輪が出た後で、牧野の小型端末では、Local Sandboxの小さなウィンドウが前面に出た。
> ここ。
Local Sandboxのウィンドウに、一語だけ出た。
表示は一度だけだった。
実際の扉も、照明も、空調も、ブラインドも動かない。
文字が出たのは、牧野が指定したLocal Sandboxの中だけだった。
僕は反射的に評価端末を見た。
そこには、さっきまでの入力欄だけが残っている。
呼びかけた場所は評価端末で、返事が返った場所は牧野の小型端末だった。
牧野が紙に書いた条件どおり、返事は小型端末の中だけに出た。
牧野は表情を変えなかった。
ただ、契約を書いた紙を押さえる指先だけは、さっきより慎重だった。
牧野は右手で、Local Sandboxと契約を書いた紙を順に指した。
「それでいいです。
ビィは、ここで返事をする。
外では動かない」
牧野の声は、甘やかすものではなく、約束と条件を同じ強さで読み上げるものだった。
> あそぶ、あと?
「後で作ります。
ここでだけです」
> そと、だめ?
「だめです」
> いたい、だめ?
「だめです」
> いう、さき?
「危ない時だけ、先に知らせてください」
> いう。
「言うだけです。許可とは別です」
> いうだけ。




