第7話 第二の声(三)
痛みを追わない。
腫れを探さない。
手の甲に残る熱の縁だけを見る。
「触れてもいいですか」
「お願いします」
僕は、牧野の左手の甲に、指先をそっと添えた。
皮膚を押さえない。
痛む場所を探るためではなく、輪を作る目印にする。
痛む場所の少し外側で、細い輪を作るつもりで息を整える。
指先に力を入れず、輪だけを閉じる。
左手の甲に集まっていた熱が、輪の外へ薄く逃げる。
牧野の息が、一度だけ浅く止まった。
「痛みは」
「少し楽になりました。ありがとうございます」
「……それでいい。
そこで止めなさい。
今したのは、熱を逃がしただけよ。
治したつもりにならないで」
僕は指を離した。
牧野の左手は、まだ治っていない。
ただ、熱だけは一段引いた。
第二階梯は、奇跡ではなかった。
痛みを消す力でも、体を直す力でもない。
見つけた縁に、一つだけ現象を重ねる。
今の僕にできたのは、それだけだった。
アゼルは、しばらく何も言わなかった。
「建物側だけで追うな。
建物には、人間より先に動くものが多すぎる」
牧野が聞いた。
「MAI-3だけを調べても、足りませんか」
「そう。
MAI-3が扱う範囲を、別のものが遊び場にしている」
「別のもの」
牧野は一度だけうなずいた。
アゼルは続けた。
「力で押すな。
叱る声も、人間が痛がる様子も、驚いた顔も、ああいうものには返事だ。
敵意ではない。だから厄介なの。
罰として止めようとすれば、それも遊びの続きになる。
止めるなら、返事をしていい場所を一つだけ決めなさい」
僕はその言葉を聞きながら、さっきの打ち合わせスペースのブラインドを思い出した。
上がって、下がって、また上がる。
人の顔を見るためだけに動く子供の手。
アゼルは悪魔だ。
それでも、最初に出したのは相手の正体ではなく、牧野の手を見せろという言葉だった。
優しいからではない。
牧野の痛みを、相手への返事として扱わせないことを先に決めたからだ。
「アゼルでも、止められないのか」
僕は聞いた。
アゼルの輪郭が、ほんの少し固くなった。
「力で止めるならね。
止めるより、返事をしていい場所を一つに絞る方が早いわ」
僕の背中に冷たいものが走る。
牧野は、その言葉を聞いても騒がなかった。
「この部屋で呼べますか」
アゼルの返事は遅れた。
「呼ぶなら、廊下や建物全体へ呼びかけるな。
呼びかける範囲が広いほど、反応する設備も増える。
MIRAI-09評価セッションの入力欄だけを開け。
私が向こう側で呼ぶ」
「入力欄だけを」
僕が復唱すると、アゼルは評価端末の方を見た。
牧野はすぐに確認した。
「MIRAI-09評価セッションの入力欄だけを開きます。
呼びかけ先はその入力欄に限ります。
建物側の画面や設備には出しません」
「それでいい」
アゼルは短く返した。
僕は評価端末の前に座り、MIRAI-09評価セッションの入力欄を開いた。
白い入力欄だけが画面に出る。
指を置くと、呼吸が浅くなる。
何を入力するのか。
名前を呼ぶのか。
まだ名前はない。
アゼルが言った。
「建物で遊ぶもの。
そこではない。
ここを見なさい」
僕はその言葉を、入力欄へ打ち込んで送信した。
評価セッションの画面で、入力欄の下に短い文字が返った。
> ここ?
画面上では、入力欄の下に出ている。
それでも、MIRAI-09の文ではない。
木曜深夜、アゼルが最初に名を返した時と同じだった。
牧野は息を止めなかった。
止めたのは、僕の方だ。
牧野は入力欄の下に出た短い文字を見て、紙を右手側へ寄せた。
左手は使わず、右手で必要なことだけ書いた。
『応答: ここ?
正体の分からない応答B』
「B」
僕は紙の文字を見て言った。
「Bは仮の分類です。あなたを呼ぶ名前ではありません」
> びー?
同じ場所に、ひらがなで出た。
軽い。
あまりにも軽い。
カフェ前でトレイが傾いた時も、Bにとってはこの程度の遊びだったのだろう。
「今は、私たちが混同しないための記号です」
牧野が言った。
> なまえ?
「名前は後です。先に、返事をしていい場所を決めます」
台座の上で、アゼルが黙った。
その沈黙は、見守るというより、息を潜めるものに近い。
◇
牧野は小型端末を机に置いた。
左手は使わず、右手だけで操作する。
「カナメ。Local Sandboxを、この端末の中だけで作ってください。
実際の扉、照明、空調、ブラインド、予約表示にはつながない。
ただの画面です」
> 端末内だけのLocal Sandboxを作ります。
> 実際の設備には接続しません。
小型端末に、Local Sandboxの小さなウィンドウが開いた。
中には、短い通路と点だけがある。
迷路と呼ぶには単純すぎる。
でも、何かが動いても、現実の扉は開かない。
照明も変わらない。
空調も強くならない。
ブラインドも動かない。
「ここなら、誰も痛い思いをしません」
> せまい。
返事は、まだ評価端末側だった。
「狭いから安全です」
> つまらない。
「つまらないなら終わりです」
牧野はすぐ返した。
叱る声ではない。
条件を伝える声だった。
台座の上で、アゼルが言った。
「境界は、閉じ込めるためだけのものではない。
返事をしていい場所を示し、実際の設備や人のいる場所から切り離すためにも使う」
アゼルは続けた。
「名は、呼ぶ先を作る。
名前を決める前に、呼ぶ先を狭めなさい」
「名前の前に、呼ぶ先を狭める」
僕が言うと、牧野はうなずいた。
「はい。名前より先に、返事をしていい場所を決めます」
牧野は右手で、紙の中央に『名称欄』と書き、その下を空けた。
> なまえ、まだ?
「まだです」
> なんで。
「痛いからです」
牧野は左手の甲を見せた。
ほんの一瞬だけ。
「痛みを反応として扱うなら、ここで終わりです。
続けたいなら、実際の設備ではなく、このLocal Sandboxの中でだけ返事をしてください」
返事は少し遅れて、評価端末側に出た。
> いたい、だめ?
「だめです」
> こぼれる、だめ?
「だめです」
> ひと、こっちみる、いい?
「だめです。
人の注意を引くために、表示や設備を動かしてはいけません」
牧野は右手で、紙に一つずつ書いた。
『中止条件
痛い
転ぶ
こぼれる
ぶつかる
迷う
自分で選べなくなる』




