第7話 第二の声(二)
ビルの空調が少し強い。
ブラインドの設定がずれている。
会議室の表示が一瞬おかしい。
どれも一つずつなら、研究所の日常に紛れる。
けれど、牧野は見逃さなかった。
「カナメ、追加」
> 追加します。
「小会議室E。ブラインドが上下。カフェ前通路。空調が一時的に強い」
> 小会議室E: ブラインドが上下。
> カフェ前通路: 空調が一時的に強い。
牧野がうなずいた時、カフェの混雑表示が変わった。
空席多め。
実際には、受け取り口の前に人が五、六人並んでいる。
席も半分以上埋まっていた。
並んでいた研究員が、表示を見て首をかしげる。
「多め、ではないな」
誰かが笑った。
また、普通の不具合として流れそうになる。
だが次の瞬間、空調がもう一段強くなった。
紙コップを載せたトレイを持つ若い研究員が、肩をすくめる。
トレイの上で、カップが滑った。
紙コップが傾く。
牧野がとっさに前へ出た。
右腕のクリアファイルを胸に押さえたまま、空いていた左手でトレイの縁を下から押し上げる。
若い研究員も反射的にトレイを抱え直した。
その拍子に、トレイの硬い縁が牧野の左手の甲を強く押した。
こぼれたのは、ほんの数滴だった。
床にも人の服にも落ちなかった。
「牧野さん」
「転んでいません」
先に言われた。
けれど、牧野はすぐに左手を胸の前へ引いた。
「痛いです」
短い言葉だった。
若い研究員が何度も頭を下げる。
牧野は「大丈夫ではありませんが、こぼれていません」とだけ返した。
大丈夫と言い切らなかったのが、逆に牧野らしかった。
隣の打ち合わせスペースで、ブラインドが一度だけ上がった。
中にいた二人が顔を上げるより先に、白い板の列が角度を変えた。
僕の喉が熱くなる。
「今のブラインドは」
「三嶋さん」
牧野が低く止めた。
「ここでは言わないでください」
僕は口を閉じた。
カフェの前には人がいる。
ブラインドで笑った人も、空調に肩をすくめた人も、トレイを落としかけた人もいる。
ここで正体を口にしたら、その言葉で全員が振り返る。
牧野は左手をかばったまま言った。
「カナメ。見えた順だけ、一覧にしてください」
> 見えた順に並べます。
> 小会議室C: 入口タッチパネルが一瞬だけ使用中。
> 集中ブース: 入口脇の利用表示が一度だけ使用中。
> 小会議室E: ブラインド上下。
> カフェ前通路: 空調が一時的に強い。
> カフェ混雑表示: 空席多め。実際は受け取り口に列、席も半分以上使用。
一覧になっても、まだ事件には見えない。
小さい不具合が、昼休みに重なっただけに見える。
それでも、並べると同じ向きが残った。
人が見る場所。
人が足を止める場所。
人が笑う場所。
人が驚いて、手元を揺らす場所。
設備の動きは、人の反応が出た場所のそばで続いていた。
◇
牧野はカフェの列には並ばなかった。
通路の端へ寄り、左手をかばったまま共同作業エリアを見た。
「食事は後で取ります」
「手、先に見てもらった方がいいです」
「後で行きます。先に戻りましょう」
「戻る?」
さっきまで笑っていた人たちは、もうそれぞれの仕事に戻っている。
空調もブラインドも、今は普通だった。
「ここでは話せません」
僕は周りを見た。
カフェの前には、まだ人がいる。
「評価室なら、周りに聞かれません」
「アゼルに聞くんですね」
「はい。三嶋さんから聞いてください」
僕たちは、来た道を戻った。
共同作業エリアの横を通る。
集中ブースの中では、誰かがノイズキャンセルのヘッドセットをつけ、画面を見たまま昼食を食べている。
評価基盤班の席の奥からは、低い機械音が壁越しに聞こえた。
閉域計算エリアは見えない。
見えないのに、そこにあることだけが、空気の冷たさで分かる。
この研究所は、AIを作る場所である前に、人間がAIと同じ建物で働く場所だった。
だから、会議室の表示も、空調も、ブラインドも、混雑表示も、仕事の一部になっている。
それが少し変わるだけで、人は立ち止まり、振り返り、持っている物の扱いを誤る。
僕は、そのことを今さら知った。
◇
MIRAI-09評価室に戻ると、部屋はさっきの静けさを保っていた。
丸い台座の縁は暗いままだ。
僕はHoloDock Proを起動した。
台座の縁に細い光が走り、卓上に透明な投影面が立つ。
ここなら、牧野にも同じ声が届く。
牧野の小型端末には、日曜の録画確認の一時メモが残っている。
昼休みの表示や設備動作は、カナメの整理に分けて置かれていた。
評価端末には、MIRAI-09評価ツールの待機画面が残っていた。
MIRAI-09評価セッションの入力欄は、まだ開いていない。
MIRAI-09を相手に、何かを試すつもりで戻ったわけではなかった。
投影面には、すぐには何も出なかった。
黒い研究服の輪郭が遅れて現れ、赤い光の筋が一つだけ走る。
「手を見せなさい」
最初に言ったのは、それだった。
「牧野さんの手ですね」
牧野は左手を少し上げた。
腫れてはいない。
ただ、動かすたびに眉がほんの少し寄る。
「触れていいか聞きなさい。
第二階梯を使う。
第一階梯で見つけた縁に、一つだけ現象を重ねる。
治療ではない。
今は、熱を外へ逃がす輪だけでいい」
僕は一度、息を止めた。
第二階梯。
十円玉を浮かせた日に聞いた言葉が、ここで戻ってくるとは思っていなかった。
ただ、第一階梯の感覚は、さっき録画で見直したばかりだった。
縁を探すところだけなら、前より迷わない。
治せないのか、と一瞬思った。
けれど、治すという言葉は大きすぎる。
痛みを消すこと、腫れを引かせること、傷んだ場所を戻すこと。
それらをまとめて扱うなら、もう、一つの現象ではない。
左手全体を見ようとすると、感覚がすぐ広がる。
痛みも、腫れも、牧野の表情も、ぜんぶ拾いそうになる。
それでは、さっき十円玉で見た縁がぼやける。




