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悪魔はAIのフリをしている  作者: Sig
第1部 悪魔接触編
6/8

第1話 君たちは、私を作っていない(六)

 僕は未使用の紙コップを、少し遠ざけた。

 比較対象は必要だ。

 再現は、まだしない。

 その線引きが、ただの臆病なのか、最後の安全策なのか、僕には分からなかった。

 作業は地味だった。


 地味であるほど、助かった。

 派手な異常に、派手な解釈を重ねると、証拠はすぐに物語になる。

 物語になった証拠は、検証しにくい。

 僕は、物語が嫌いなわけではない。

 ただ、評価室で物語に負けるわけにはいかなかった。


 通報フォームは、まだ開いたままだった。

 異常人格的応答。

 評価者名の返答。

 未公開メモ内容の応答。

 接触なしの紙容器変形。


 ここまでは書ける。

 最後の欄で、また手が止まる。

 対象応答は、自らを悪魔と名乗った。

 僕はその一文を打った。

 打ってから、送信しなかった。


 最低だ。

 分かっていた。

 でも、その時の僕は、報告より先に一つだけ確かめたかった。

 紙コップの変形は、もう起きた。

 では、起きる前の条件は何だったのか。


 僕が見ていたこと。

 MIRAI-09が応答可能だったこと。

 音声と表示を切り替えたこと。

 アゼルが、窓や灯台という言葉を使ったこと。

 僕が証明を求めたこと。


 どれが必要条件で、どれが飾りなのか。

 研究者としては、そこを見なければならない。

 評価者としては、通報しなければならない。

 僕は、その二つを並べて、研究者の方へ一歩寄った。


 MIRAI-09を止めれば、窓は閉じるかもしれない。

 窓が閉じれば安全になるかもしれない。

 だが、何が開いたのか分からないまま閉じれば、次に同じことが起きた時、僕たちはまた同じ場所から始める。

 そういう言い訳を、僕はすでに作っていた。

 怖いものほど、再現したくなる。


 技術者には悪い癖がある。

 本来なら、この時点で通報フォームを送ればいい。

 送れば、評価セッションはロックされる。

 机上カメラと操作録画は追記不可で固定され、夜間保全チームへ通知が飛ぶ。


 僕は送らなかった。

 紙コップにも触れなかった。

 補助メモの対象名には、紙容器Aと入れた。

 悪魔の証拠ではなく、紙容器A。

 言葉を小さくすると、罪も小さく見える。


 補助メモを保存した瞬間、背中のあたりが少し重くなった。

 研究所の手順を破った感覚ではない。

 手順の手前に、自分の都合だけを置いた感覚だった。


 僕は未使用の紙コップを、紙容器Bとして机の端に置いた。

 これも写真に撮る。

 比較対象。

 未変形。

 接触なし。


 そう書けば、まだ検証に見える。

 実際、検証ではあった。

 ただし、その検証を誰に見せるつもりなのか、僕はその時点で決めていなかった。

 僕は通報フォームをもう一度見た。


 下書き保存の表示が、画面の端に残っている。

 送信はされていない。

 主任評価者にも、保全チームにも、モデル安全委員会にも飛んでいない。

 僕が押さなかったからだ。

 当たり前のことなのに、その当たり前が少し怖かった。


 研究所の安全手順は、人間が最後のボタンを押す前提で作られている。

 人間が押さなければ、どれだけ正しい手順も待つ。

 僕は通報フォームのタブを閉じた。

 閉じる前に、下書きとして保存するか聞かれた。

 保存、を押す。


 送信ではない。

 僕はその違いに逃げた。

 評価端末には、MIRAI-09の入力欄がまだ残っている。

 セッション状態は、継続中。

 机上カメラも操作録画も、まだ記録を続けている。


 継続中。

 その表示は、何も隠していない。

 隠しているのは、僕の方だった。

 画面の端には、いつもの注意文が並ぶ。


 夜間単独利用は、緊急性または継続評価の必要がある場合に限る。

 異常応答を確認した場合は主任評価者へ報告すること。

 評価室内で物理的な破損を確認した場合は、保全チームへ連絡すること。

 立会者なしでの継続評価は推奨しない。

 どの一文も、今の僕へ向けて書かれているようだった。


 牧野の名前を入れればいい。

 古賀主任でもいい。

 誰か一人に知らせれば、その人は来る。


 来るだろう。

 怒るだろう。

 それでも来て、ログを見て、紙コップを見て、僕を部屋から出すだろう。

 それが正しい。

 僕は知らせなかった。


 画面の向こうの何かは、その沈黙まで読んでいるようだった。


> 君は、続ける。


「決めつけるな」


> 君は、まだ答えを得ていない。

> 止めるための言葉も、君は知っている。

> それでも、君は進む。


 僕はMIRAI-09の入力欄をクリックした。

 そのクリック音は、評価室の中でやけに大きく聞こえた。


 送信していない通報フォーム。

 読み取り専用にしたログ。

 机上に残した紙コップ。

 そして、まだ開いている入力欄。

 どれも、まだ事件ではなかった。


 少なくとも、僕はそう思おうとした。


     ◇


 続きを始めたのは、四時を少し過ぎた頃だった。

 評価室の照明は、僕が立ち上がると自動で一段明るくなる。

 床に落ちた保守マニュアルを拾い、棚へ戻す。

 机上カメラの録画状態を確認する。

 未使用の紙コップには触れない。


 紙容器Aは、評価端末の右側。

 紙容器Bは、机の端。

 差分は、変形ありと未変形。

 それだけのはずだった。

 僕は評価端末に戻った。


 画面右下の標準AIアイコンは、いつもの色のままだった。

 警告も、追加確認も出ていない。

 僕は、少しだけほっとした。


 標準AIは、僕の顔色に触れない。

 未送信の通報フォームにも触れない。

 紙容器Aにも、悪魔にも、魂の輪郭にも触れない。

 必要な項目だけを読み上げる。

 機械が機械らしくあることは、こんなに人を落ち着かせる。


 牧野から、零時過ぎに一件だけメッセージが来ていた。

 メッセージには「予定表の三嶋さんへ。現実の三嶋さんを帰らせてください」とあった。

 それを見て、少し笑った。

 笑ってから、返事に困った。


 帰ります、と打つ。

 違う。

 まだいます、と打つ。

 それも違う。


 異常ログが出た、と打つ。

 消す。

 まだ確認します、と打つ。

 送信しない。

 僕はチャットを閉じた。


 返事をしないことも、返事の一種だ。

 僕は入力欄に指を置いた。


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