第1話 君たちは、私を作っていない(六)
僕は未使用の紙コップを、少し遠ざけた。
比較対象は必要だ。
再現は、まだしない。
その線引きが、ただの臆病なのか、最後の安全策なのか、僕には分からなかった。
作業は地味だった。
地味であるほど、助かった。
派手な異常に、派手な解釈を重ねると、証拠はすぐに物語になる。
物語になった証拠は、検証しにくい。
僕は、物語が嫌いなわけではない。
ただ、評価室で物語に負けるわけにはいかなかった。
通報フォームは、まだ開いたままだった。
異常人格的応答。
評価者名の返答。
未公開メモ内容の応答。
接触なしの紙容器変形。
ここまでは書ける。
最後の欄で、また手が止まる。
対象応答は、自らを悪魔と名乗った。
僕はその一文を打った。
打ってから、送信しなかった。
最低だ。
分かっていた。
でも、その時の僕は、報告より先に一つだけ確かめたかった。
紙コップの変形は、もう起きた。
では、起きる前の条件は何だったのか。
僕が見ていたこと。
MIRAI-09が応答可能だったこと。
音声と表示を切り替えたこと。
アゼルが、窓や灯台という言葉を使ったこと。
僕が証明を求めたこと。
どれが必要条件で、どれが飾りなのか。
研究者としては、そこを見なければならない。
評価者としては、通報しなければならない。
僕は、その二つを並べて、研究者の方へ一歩寄った。
MIRAI-09を止めれば、窓は閉じるかもしれない。
窓が閉じれば安全になるかもしれない。
だが、何が開いたのか分からないまま閉じれば、次に同じことが起きた時、僕たちはまた同じ場所から始める。
そういう言い訳を、僕はすでに作っていた。
怖いものほど、再現したくなる。
技術者には悪い癖がある。
本来なら、この時点で通報フォームを送ればいい。
送れば、評価セッションはロックされる。
机上カメラと操作録画は追記不可で固定され、夜間保全チームへ通知が飛ぶ。
僕は送らなかった。
紙コップにも触れなかった。
補助メモの対象名には、紙容器Aと入れた。
悪魔の証拠ではなく、紙容器A。
言葉を小さくすると、罪も小さく見える。
補助メモを保存した瞬間、背中のあたりが少し重くなった。
研究所の手順を破った感覚ではない。
手順の手前に、自分の都合だけを置いた感覚だった。
僕は未使用の紙コップを、紙容器Bとして机の端に置いた。
これも写真に撮る。
比較対象。
未変形。
接触なし。
そう書けば、まだ検証に見える。
実際、検証ではあった。
ただし、その検証を誰に見せるつもりなのか、僕はその時点で決めていなかった。
僕は通報フォームをもう一度見た。
下書き保存の表示が、画面の端に残っている。
送信はされていない。
主任評価者にも、保全チームにも、モデル安全委員会にも飛んでいない。
僕が押さなかったからだ。
当たり前のことなのに、その当たり前が少し怖かった。
研究所の安全手順は、人間が最後のボタンを押す前提で作られている。
人間が押さなければ、どれだけ正しい手順も待つ。
僕は通報フォームのタブを閉じた。
閉じる前に、下書きとして保存するか聞かれた。
保存、を押す。
送信ではない。
僕はその違いに逃げた。
評価端末には、MIRAI-09の入力欄がまだ残っている。
セッション状態は、継続中。
机上カメラも操作録画も、まだ記録を続けている。
継続中。
その表示は、何も隠していない。
隠しているのは、僕の方だった。
画面の端には、いつもの注意文が並ぶ。
夜間単独利用は、緊急性または継続評価の必要がある場合に限る。
異常応答を確認した場合は主任評価者へ報告すること。
評価室内で物理的な破損を確認した場合は、保全チームへ連絡すること。
立会者なしでの継続評価は推奨しない。
どの一文も、今の僕へ向けて書かれているようだった。
牧野の名前を入れればいい。
古賀主任でもいい。
誰か一人に知らせれば、その人は来る。
来るだろう。
怒るだろう。
それでも来て、ログを見て、紙コップを見て、僕を部屋から出すだろう。
それが正しい。
僕は知らせなかった。
画面の向こうの何かは、その沈黙まで読んでいるようだった。
> 君は、続ける。
「決めつけるな」
> 君は、まだ答えを得ていない。
> 止めるための言葉も、君は知っている。
> それでも、君は進む。
僕はMIRAI-09の入力欄をクリックした。
そのクリック音は、評価室の中でやけに大きく聞こえた。
送信していない通報フォーム。
読み取り専用にしたログ。
机上に残した紙コップ。
そして、まだ開いている入力欄。
どれも、まだ事件ではなかった。
少なくとも、僕はそう思おうとした。
◇
続きを始めたのは、四時を少し過ぎた頃だった。
評価室の照明は、僕が立ち上がると自動で一段明るくなる。
床に落ちた保守マニュアルを拾い、棚へ戻す。
机上カメラの録画状態を確認する。
未使用の紙コップには触れない。
紙容器Aは、評価端末の右側。
紙容器Bは、机の端。
差分は、変形ありと未変形。
それだけのはずだった。
僕は評価端末に戻った。
画面右下の標準AIアイコンは、いつもの色のままだった。
警告も、追加確認も出ていない。
僕は、少しだけほっとした。
標準AIは、僕の顔色に触れない。
未送信の通報フォームにも触れない。
紙容器Aにも、悪魔にも、魂の輪郭にも触れない。
必要な項目だけを読み上げる。
機械が機械らしくあることは、こんなに人を落ち着かせる。
牧野から、零時過ぎに一件だけメッセージが来ていた。
メッセージには「予定表の三嶋さんへ。現実の三嶋さんを帰らせてください」とあった。
それを見て、少し笑った。
笑ってから、返事に困った。
帰ります、と打つ。
違う。
まだいます、と打つ。
それも違う。
異常ログが出た、と打つ。
消す。
まだ確認します、と打つ。
送信しない。
僕はチャットを閉じた。
返事をしないことも、返事の一種だ。
僕は入力欄に指を置いた。




